高虎と脇坂安治
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高虎と脇坂安治は、共に近江国出身で、朝鮮役に従って辛酸を嘗め、慶長五年の関ケ原戦においては、高虎が安治の寝返りを仲介する等、個人的な信頼関係が見受けられるが、それを裏付ける史料が見つけられず、はてと思っている。両人が直接、遣り取りした書状を探し出せず、脇坂家の文書を調べてみるか・・・と思うものの私は藤堂家には詳しいが、脇坂家についてはさっぱりで史料の所在や内容に通じておらず、手探りの状態である。どなたかご存じでしたら教えて下さい。
傍証の一つとして、高虎の家臣は、高虎と親しい改易大名や、近江出身者の仲介によって伝えた者が多いので、脇坂安治・安元親子の紹介によって仕えた者を見てみると、尼子甚三郎、打田武左衛門、小笠原甚兵衛、落合左近、佐久間与左衛門、杉山権兵衛、鈴木三郎兵衛、多賀作左衛門、瀧野九左衛門、成瀬十兵衛、平井忠右衛門、安並六兵衛、山田半左衛門と多数に及んでいるから、相応に親しい間柄だった様に推測される。
また寛永十一年に土井利勝、半井通仙院の仲介で召出された脇坂三郎右衛門一盛は、脇坂親子の一族ではないかと思っているのだが、上記藩士家含め、その記録は関東大震災や戦災で喪われていて、経歴は不明、残念という外ない。少しだけ経歴を見出せたのは、落合左近のみである。
左近は、近江国六角氏の家臣であった落合出雲守の子で、大坂夏の陣で戦功を挙げたが、二代目の永勝が藩を出奔してしまったので、藩に家記録は残らなかった。
一 千五百石 落合左近
私儀慶長九年ニ脇坂中務殿御肝煎にて御奉公罷出候 当子ノ年迄廿四年罷成候 今以脇坂淡路殿被懸御用候 大坂両陣御供仕候 右之外よしミ無御座候
一 大坂御陣五月六日之御合戦鑓を合冑付首一ツ討捕申候 場所ハ藤堂式部働之近所ニ而御座候由七日ニも
冑首一ツ打捕申其日之一番首ニ而御座候 左近家来柏原十太夫と申者能働御陣以後阿部豊後守様江知行四百石ニ而云々
脇坂三郎右衛門一盛は、20年位前にネット上で系図を保有されていると書き込まれている方がおられたので、あの時、ダメ元で訊いておけば良かった・・・と後悔している。






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