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外部人材中心故の困難な管理

 藤堂家の家臣は、外部から採用、招聘した人物が、大部分を占めており、それを統括する士大将もまた外部採用者であるため、その管理には色々な課題を抱えていた。その主なものに高虎がどの様に対処していったのかを、史料から見てみる。

(1)課題1: 血縁や、数代に亘り培われた主従関係がなく、結束が弱い。

 ⇒対策有能な人材を継続的に獲得しつつ、若手を育成。藤堂姓下賜により疑似的同族関係を形成

 ①有能人材の獲得

「高虎、才を愛し、士を好み、善く英雄の心を攬る。嘗て侍臣に語て曰く、吾少なるや、気を負ひ功名を喜び、堅を被り銃を執る、是より楽みと為せしことなし、進む毎に先登し、退く必ず後殿し、死を視ること芥を弃るが如くなりき。茅土の封を享くるに及びては、則ち言ふ。暴虎馮河は徒に匹夫の勇、軽戦寡謀は大将の義にあらずと。是に於て始めて自重し、身を慎み、唯人を得るを以て務と為す。幸い皇天鑿祐し、良政、良勝、高則、皆剛勇我に勝れり。其余俊傑、元則、家信、氏勝、了等の如き、相継ぎ我鷇中に入る。是を以て朝鮮、関ケ原、大坂の役、並に功を効し、捷を奏するを得たり。是皆人を得るの効なり。」(名将言行録

領主となって以降は、自分が手を砕くのではなく、人材を集めるのが仕事と心得る様にした。その結果、数々の戦役に於いて勝利をもたらすことが出来た。これは全て優れた人材を獲得できた結果である

 上記で高虎が述べているが、高虎は元々自分自身の槍働きでのし上がって来た人物である。

 しかしながら、領国を持ってからは、率先して敵陣に乗り込む様なやり方を改め、ひたすら人材獲得に心を砕いた。

 組織が大きくなってくると自分だけの働きでは成果が上げられないことを理解していたものと思われる。

 そして「朝鮮役、関ケ原戦、大坂両役に藤堂家として働きを全うできたのは、全て優れた人材を獲得できた結果である」とまで述べているのである。

 

 ②若手の育成

 実力があり、他家でも通用する様な人物は退去のリスクがある。

 そこで高虎は、高虎は有為人材を集める一方で、才能がある若手家臣を育成・抜擢して藤堂姓を与えて疑似的な一族を形成、帰属意識の高い家臣団も創生していった。その主な人物は次のとおりで、賜姓年、対象者名、本姓及び高虎との関係を記載する。


文禄4年

 藤堂仁右衛門高刑 (本姓:鈴木)高虎の甥

慶長3年

 藤堂孫八郎忠重 (本姓:今井)幼少より高虎に近侍
 藤堂勘解由氏勝 (本姓:長井)粉河以来の長期勤務者
 藤堂作兵衛忠光 (本姓:箕浦)高虎の従兄弟

 慶長7年

 藤堂采女元則 (本姓:保田)増田長盛旧臣、家康の指示有り。

慶長12年

 藤堂式部家信 (本姓:磯崎)幼少より高虎に近侍。父は浅井家時代に高虎と同僚
 藤堂右京康成 (本姓:服部)幼少より高虎に近侍。父は粉河以来の長期勤務者

慶長14年

 藤堂源助直廣 (本姓:山岡)高虎の甥
慶長17年

 藤堂主膳吉親 (本姓:深井)幕臣の推挙により仕官。後の幕府老中・松平伊豆守信綱の叔父に当たる。
元和元年

 藤堂兵庫一之 (本姓:伊藤)幼少より高虎に近侍。父は長期勤務者
元和三年

 藤堂主殿正綱 (本姓:細井)幼少より高虎に近侍。父は長期勤務者
元和?年

 藤堂十三郎 (本姓:玉瀧)

 紀伊粉河時代から親族及び家臣の子弟の内、優秀者を選定して育成し、抜擢した。その結果、大坂陣の頃には、士大将や母衣組を構成する中核人材へと成長し、後には内政、軍事を担う藩屏となった。

(2)課題2:待遇が気に入らないと辞去してしまう。

 ⇒対処方針家臣を厚遇すると共に、信頼関係を構築

 

 

 高虎は君臣間の「情」、つまり感情的な繋がりも重視した。いくつかの史料からそれを見てみる。

 ①「高山公二百條」・・・晩年の高虎が江戸藩邸で折々周囲に語った内容をまとめたもの

  

家来常々召仕様之事

第一情をかけ諸事見のかし候事肝要也、大それたる事有之時は其身の因果たるへし、理非を以可申付然れ共助ても不苦品あらは、其儀にもとらし可然切手遅かれと申傳へたり

 

■家人に禄をとらせたる分にては思ひつかす、奉公する上下禄は相應に取へし、是大躰也、とかく情にて召使へは徳多し、一言にて命を奉る是情なり、禄多くとらするとも命をすつるほどの事は有ましき、か深く情をかけむとおもふ主人は用にも可立歟、第一本意たるへし

 

[現代語訳]

家臣に情をかけ、細々したことは見逃すことが肝要である。大事になったときは、家臣のせいではなく自分の運命と考えるべきだ。

とにかく情けをかけて家臣を召し使えば望ましいことが多い。主のために一言で命を捨ててくれるのは常日頃の情けによる。いくら禄を多く与えても命を捨てて報いてくれる程にはならないであろう。

 ②高虎の書状1 「宗国史」所収 –家臣 松本宅蔵の戦死について親族へ宛てたもの-

 

宅蔵事今度於唐嶋表手柄無比類ニ付て、為褒美知行三百石令扶持候、然者今度赤国表ニおひて番船就有之合戦仕候処ニ、又一番乗仕無比類仕合候、然ル処ニはい処手を負種々かん病申付、既ニ我等も薄手負候へ共、日々彼者舟へ見廻療治無油断候、きうぢ処ニ付て終ニ相果候、不便なる儀中々可申様無之候、其方心中同前事ニ候、是非共人ニなしめしつかい可申と存候処ニ残多仕合候、此跡式之儀むこ成共又ハちかき親類候者養子可仕候、何者にても右之知行可遣候、去とてハ不便ニ候、さりなから侍者討死仕候か本儀ニ候条、存知きり忘脚不仕留守等之儀尚以念を入可申付候、恐々謹言

 

九月廿九日 佐渡  花押

 

百々六郎右衛門殿

[現代語訳]

家臣の松本宅蔵が朝鮮役で重傷を負い、日々看病に努めたが終に亡くなった。残念な気持ちを中々言葉にできない。ぜひとも一廉の人物に育て上げて働いて貰いたかったのだが、なんとも心残りの多いことだ。しかしながら侍は討ち死にするのが本来の役目である。それを理解し、忘れてはならない。

 ③高虎の書状2 「高山公実録」所収 –家臣 山岡兵部の戦死について、両親への配慮を込めたもの-

兵部事折々存出し不便ニ、さそ二人之おや朝暮存出し候ハんと令推量候、いつれも打死之者共跡をたて其子共取立候ヘハ少ハ恩を報し候か、兵部ハ子も無之一入不便候間、其方山城殿致供上洛之刻者折々見廻可被申候、母方へ金子一枚遣候、謹言

 

(元和元年)

七月十四日

  藤 和泉守

      御判

畠田理兵衛殿

[現代語訳]

(大坂夏の陣で戦死した家臣)兵部のことを時々思い出しては残念に思っています。両親もさぞ朝夕思い出して悲嘆にくれていることでしょう。討ち死にした家臣は、いずれもその子供を取り立てて跡を継がせ、少しは恩に報いてやれましたが、兵部は子がなかったのでそれもできず、一層残念に思っています。あなたが堀尾山城守殿の供をして上洛した際には、(供養した南禅寺に)ぜひ訪れてほしい。なお、兵部の母へ金子一枚をお送りします。

 ④旧主より高虎への報恩を優先した桑名弥次兵衛

大坂陣の際、桑名弥次兵衛は、長宗我部家旧臣が多数、新主を捨てて大坂城に籠る中、藤堂家に残留し、旧主や親族と戦って討死した。 

 

「土佐物語」

扨も長宗我部盛親が八尾の合戦に勇を奮ひ、人の耳目を驚かしけるは、古き士多く付き纏ひし故とぞ聞こえし。彼の盛親は一度領国を召し放され、主従六人柳が図子に住みけるが、旧好の者共いかにして付き随ひけるぞと、委しく是を尋ね聞けば、盛親沈落の後は新参・外様は言ふに及ばず、譜代恩顧の者共も、或いは四方を経廻して主人を求め禄を得るも有り、或いは二君に仕へじとて、古郷の片辺り、阿波・淡路・和泉・河内に立ち忍び、一日の飧をを求むるも有り、縁に依り便りに随ひて心々に成りにけり。

 桑名弥次兵衛・中島与市兵衛・吉田孫太夫・松田与左衛門は、藤堂和泉守高虎に仕へて伊勢に居たり。吉田弥右衛門・その子三郎左衛門は、生駒讃岐守正俊に仕へて讃州に住す。豊永惣右衛門・吉田猪兵衛は福島左衛門太夫正則に仕へて芸州に有り。かかる所に盛親龍城の聞こえ有りしかば、皆主君に暇を乞ひて大坂へぞ参りける。中にも吉田猪兵衛は折節在江戸にて居たりければ、直ちに大坂へ行きしかども、合戦の最中にて城へ入るべき便りなく、彼方此方としけるが、桑名弥次兵衛一孝が陣所へ立ち寄り、互ひに土佐国退散の後は音問もなかりし事を語り、共に涙をぞ流しける。

 

 猪兵衛申しけるは「我は左衛門太夫殿に奉公申して候へども、盛親御籠城と承り、旧主と一所にていかにも成らばやと存じ、暇を乞ふて来たり候へども、寄せ手堅うして城へ入り得ず候」と語りければ、弥次兵衛、「足下龍城の志、誠に至極に侯、いかにもして城に入り随分忠勤致されよ。一孝も伴ひ参りたくは候へども、和泉守殿の厚恩を蒙り候へば、只今龍城する時は主君に弓を引く不忠不義の罪人なり、又当主に忠を尽くす時は、譜代相伝の主君に敵をなす八逆罪の無道人なり。されば進退爰に極まって候。詮ずる所大勢の中へ駆け入り手を下ろさず討死して、当主に不忠を成さず、旧主に不義を成すべからずと思ひ定めて候ぞや。御辺達の手に懸け給はれ。今生の暇乞ひなり」とて、互ひに盃差し交はし、涙ながらに別れけり

「元和先鋒録」

 桑名弥次兵衛は、仁右衛門の左の方少し手前にて敵に逢、是又自身に槍を堤、先に進み申候に付、嫡子将監一久其外、土佐組之面々、杉立九郎左衛門、市田重右衛門、鶴原善左衛門、入交助左衛門、群がる敵を突立て突立て先手を追崩し、長曽我部が旗本まで切入申候由、

 長曽我部譜代のものは皆々互に見知りたる儀に候へは、桑名にてはなきか、それのがすな弥次兵衛打とれ我も我もと打かかる中にも、近藤長兵衛先に進み無二無三に突てかかり候処を、弥次兵衛槍をつき折、刀を抜打合候に刀も打落され、短刀を握りながら近藤が槍に貫れ申候。其節、甥桑名源兵衛一友・西内九郎右衛門・浅木三郎右衛門・弟勘助一正・依岡吉兵衛・山田八右衛門資治・橋本平兵衛いづれも組頭同所に討死仕候事。

長宗我部元親は慶長四年に伏見で病死する際、遺言として

「長曾我部家ニ如何様之武篇者出来候共先手ハ弥次兵衛・・・跡ハ宿毛甚左衛門ニ被仰付候へ」と嗣子・盛親に言い残した。

 

 桑名弥次兵衛は、長宗我部家累代の家臣でありながら、旧主である長宗我部盛親の厚い信頼に応えるより、高虎への報恩を優先し、かつての同僚達を相手に槍折れ、刀も打ち落とされた後、短刀を抜いてまで戦い抜いた。

 高虎が家臣の心を掌握していたことが推定される事実である。

(3)課題3:転封先で在地勢力を家臣に組み込むも、守旧意識が強く扱い難い。

 ⇒対処方針巧みな間接婚姻政策。

 

 重臣諸家の子女と、在地勢力の子女の婚姻を推し進め、新旧家臣の融和を図りつつ、帰属意識を高め、結束力を強化した。

 

 

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