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須知家

 元、毛利高政臣で、慶長の朝鮮役の際に高虎に召し抱えられた須知出羽定信を初代とする。

定信は、始め主水と称したが、元和年中に先祖の名に倣ったらしく出羽と改めた。

 須知氏は元々、丹波国船井郡須知城主である。織田氏の丹波攻略で多くの丹波国人が下城を

余儀なくされたが、須知氏もその一人であり、定信は毛利伊勢守高政に仕えた。

 慶長三年、朝鮮再役の折、戦場に於いて定信が敵陣より放たれた虎を馬上から一突きに突き

殺したのを見た高虎が、高政に懇願して貰い受けた。

 当時、朝鮮半島に本当に虎がいたのか分からないが、事実なら「虎退治」で有名な加藤清正

と肩を並べる武功ということになる。須知家の系図にはこの時の虎皮は須知半之丞家の子孫

である須知正左衛門正慎の家に蔵すとあるから本当なのかもしれない。

 慶長三年、高虎の家臣となり、二千石を給される。高虎は定信の能力を高く評価していた様で

慶長六年、家康より福島正則の監視を命じられた際には、定信を伊予国甘崎城代とし、来島家の

旧臣十余人を配下として預けた。これが後、「久留島衆」と呼ばれる様になった。

 同十九年の大坂冬の陣には旗本士大将となり組士三十八騎を率い、負傷。翌元和元年の夏の陣

にも旗本士大将を務めたが、五月六日の戦闘で先鋒が壊滅したため翌七日は右先鋒の相備となった。

寛永十六年十二月二日、死去。

 

 定信は、遺言で自分の禄を嫡子だけではなく、一族に分与される様に願い出ていたらしく、

寛永十七年二月にその遺領は次の様に分割して与えられた。

五百石  須知孫左衛門吉正   定信嫡子

三百石  須知丞助正廣     定信の孫(娘の子)

二百石  須知権之丞      定信の甥(弟の子)

二百石  須知少(所)左衛門定元  定信の甥(弟の子)

百五十石 須知左近正長     定信の甥(弟の子)

 須知所左衛門家は、四代目に至って藤堂出雲家から養子・元宴を迎えたが、元宴は藩主の

一族ということから、享保十四年に藤堂姓を下賜され、禄も千三百石に上った。

 百五銀行設立発起人の須知左馬太郎氏は、須知所左衛門定元のご子孫、

 昭和20年時の海軍相浦海兵團長・須知幸太郎大佐は、須知丞助正廣のご子孫である。

[須知氏系図]

 

 山内修理亮
定重───────────────────────┐
 須藤刑部丞後胤也 依之山内為氏         │
┌────────────────────────┘

│ 山内左馬助
├定頼

│ 山内右馬助
└定清──────────────────────┐
  丹州船井郡紅村城主              │
┌────────────────────────┘

│ 山内信濃守
└定光──────────────────────┐
  定清女子有一人無男子故            │
  定光配于実女令嗣山内家            │
  記曰定光仕于細川管領高國而麾         │
  有軍功其感状二通有              │
┌────────────────────────┘

│ 山内孫十郎
└定家──────────────────────┐
  始属信長公後奉仕秀吉公            │
  如父祖住于丹州紅村給地 三百石        │
┌────────────────────────┘

│ 須知出羽 始主水 元和中改出羽 号梅雪
├定信──────────────────────┐
│ 住丹州船井郡須知村              │
│ 須知村与紅村相隔一里余也           │
│ 天正年中属毛利伊勢守高政而従         │
│ 高麗之役於朝鮮有武功             │
│ 帰朝之後辞毛利家而仕高虎公          │
│ 食禄弐千石 寛永十六年卒           │
│                        │
│ 山内彦助 後号佐太夫             │
├定正───────────────────┐  │
│                     │  │
│  ┌──────────────────┘  │
│  │                     │
│  │ 山内所左衛門 九大夫 後姓改須知    │
│  ├定元                   │
│  │ 高虎公賜三百石 奉仕高次公高久公    │
│  │                     │
│  │ 須知左近 後半之丞           │
│  └正長                   │
│    百五十石 奉仕高次公          │
│                        │
│ 伊勢因幡守 後号仙斎             │
├某 ───────────────────┐  │
│ 仕細川越中守 名家伊勢因幡守養子    │  │
│  ┌──────────────────┘  │
│  │                     │
│  │ 伊勢因幡守 後号印斎          │
│  └某                    │
│    仕于同家而受父禄 父与仙斎倶熟得    │
│    家業鞍打之法 今子孫肥後熊本      │
│                        │
├女 澤隼人室                  │
│                        │
│ 山内八兵衛                  │
├某 ───────────────────┐  │
│ 室神宮六兵衛女             │  │
│  ┌──────────────────┘  │
│  │                     │
│  │ 須知権之丞               │
│  └某                    │
│    二百石 奉仕高次公           │
│                        │
│ 山内小兵衛                  │
├某                       │
│ 妻橋詰村山内五左衛門女            │
│                        │
│ 山内覚兵衛                  │
└某                       │
  妻神宮五郎兵衛女               │
  有子孫住丹州紅村               │
                         │
┌────────────────────────┘
│ 須知九右衛門 元和年中孫左衛門 父没後出羽
├吉正──────────────────────┐
│ 自慶長五年 奉仕高虎公 千石         │
│ 室 長屋若狭女                │
│                        │
│ 嫁京師町屋                  │
└女 ───────────────────┐  │
                      │  │ 
   ┌──────────────────┘  │
   │ 須知丞助                │
   └正廣                   │
     三百石 奉仕高次公           │
┌────────────────────────┘
│ 須知出羽
├吉正
│ 実石田惣左衛門次男

└女 吉正室

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