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​高虎家臣 氏名 ま~も 迄

【蒔田政行】
(助九郎)。元、豊臣秀頼臣。父は蒔田主水正正勝(1)。大坂夏陣の後、没落。元和八年、松平下野守、織田兵部少輔信良の肝煎により高虎に仕え五百石を給される。後、藩を辞して他家に仕えるという。

【槇島監物】
(真木嶋勝太、監物)。元、豊臣秀頼臣。一色民部大夫昭重の三男で真木嶋(槇島)玄蕃頭昭光入道云庵の養子。真木嶋氏は清和源氏桃井流、本姓は一色。養父の昭光は足利義輝に仕え、その生害後は義昭に仕えた。天正元年七月の義昭挙兵の際は真木嶋城主。義昭の降伏、追放に伴い中国にも随行。その後、義昭は豊臣秀吉より赦免され帰京。昭光も従って京都に戻り、後、秀吉に仕えて二千石を給され奏者番を勤める。秀吉死後は秀頼に仕えて大坂両陣には速水甲斐守の麾下に属すという。大坂落城後脱出し細川忠興、加藤嘉明らの嘆願により赦免された。監物は元和五年、細川忠利の肝煎により召し抱えられ八百石を給される。

【松井多兵衛】
諱不明。慶長三年、家康の側室・正木氏より諏訪部惣右衛門を通して高虎に依頼が有った為、召し抱えられ二百石を給される。翌四年、二百石加増され四百石。大坂両陣には駿府屋敷に詰め、陣後、三百石加増されて都合七百石となり足軽二十人を預かる。駿府屋敷を引き払った後は江戸屋敷の留守居役となる。

【松尾統幸】
(田村七郎、作之進、松尾甚兵衛)。諱は親家、統順、統幸ともいった。元、豊後国大友家々臣。田村勘解由兵衛親貞の養子。祖父は田村三郎親康(号・宗切)。元亀四年二月二十一日、主君・大友義統より偏諱を与えられる。天正七年、豊前彦山攻撃に従軍。翌八年、田原親貫討伐戦に従軍。同十二年、筑後猫尾城攻撃にも従い、義統より感状を与えられた。文禄元年、大友吉統に従い朝鮮役に従軍。同二年、大友家改易により豊後を出て和泉国堺に遊居。この頃、名を松尾甚兵衛と改める。慶長二年十一月、藤堂作兵衛の取次により、高虎に召し抱えられ宇和郡に於いて百五十石を給された。同五年の関ヶ原陣には板島に留め置かれる。慶長十三年、高虎の転封に従い伊賀附となる。大坂両陣には藤堂新七郎隊下に属し、元和元年五月六日、戦死。室は鶴原善左衛門の姉。

【松原十右衛門】
諱不明。慶長十五年、幕臣・大久保内記の肝煎と藤堂采女の取次を以て召し抱えられる。幕臣・高山主水正の親類と云う。慶長十九年、大坂冬の陣には、右先手足軽大将、翌年の夏の陣には黒母衣組に列する。陣後、二百石加増。後、七百石となる。寛永六年、伊賀に於いて死去。

【松本雅楽】
諱不明。天正十三年、紀州に於いて召し抱えられる。後、伊予に於いて五百石を領し船奉行となる。文禄の役に従う(1)。慶長十九年、大坂冬の陣の際には兵糧・兵器などを大坂に輸送(2)。夏の陣は留守居(3)。後、報奨として銀子一枚(4)。元和三年、田丸城附となる(5)。同八年十月、死去。

【真野頼包】
(藤左衛門、豊後守、五左衛門)。父は真野蔵人助宗。元、豊臣秀頼臣。父を継いで七手組頭の一人。大坂両陣は城方として戦う。元和二年、高虎に招かれ千二百石を給される。後、辞して浅野家に仕え、後、尾州徳川家に仕えた。明暦元年五月三日、死去。一説に高虎に仕えて程なく死去し室に少月俸を給すともいう。

【馬淵広定】
(半右衛門)。馬淵氏は近江国馬淵城主か。江州の産という。慶長十四年、藤堂采女の取次により伏見に於いて召し出され三百石を給された。慶長十九年八月、二百石加増され五百石となる。大坂両陣には旗本組に属し、陣後二百石加増。元和三年、竹沢平右衛門と共に田丸領の奉行職を命じられる。元和九年、三百石加増され都合千石。津の加判奉行となる。

【三上与兵衛】
諱不明。慶長五年、藤堂内膳の取次により召し抱えられ二百石を給される。射芸に堪能であった為、騎射隊に入る。大坂両陣にも藤堂勘解由隊下に属し功あり。陣後、五十石加増され二百五十石となる。寛永十九年、死去。

【箕浦家次】
(少内)。箕浦作兵衛忠秀の三男、藤堂作兵衛忠光の弟。元、織田七兵衛臣。高虎が織田家を退去した際に、共に同家を去るという。慶長五年、石田清兵衛の取次により召し出され三百石を給される。大坂冬陣には新七郎良勝の隊下に属し、翌元和元年二月二日、二百石加増され五百石となる。夏の陣には甥・忠久が病中の為、その隊士を率いて出陣し良勝の隊下に入った。五月六日、若江・萓振付近に於いて戦死。

【箕浦元杜】
(藤兵衛)。箕浦内記の子。父の内記は堀 秀治に仕え二千七百石を食し、後、越後国柏崎城代であった。堀家改易の後、越後に入封した松平上総介忠輝に招かれたが辞退し、子の元杜を仕えさせた。元和二年、松平家改易により元杜は堀 丹後守直寄の肝煎と藤堂采女の取次によって高虎に召出され、禄五百石を給されて母衣衆に列す。元和九年、百石加増。室は堀 秀政の妹か。

【村井成直】
(宗兵衛)。天正十七年、十六歳の時、縁者である藤堂(箕浦)作兵衛忠光の手引きで高虎に拝謁し、百五十石を給され、小姓となる。文禄元年、宗兵衛は当時代官であったが高虎に出陣を請い、許されて朝鮮陣に従った。慶長の役にも出陣。慶長五年、関ヶ原陣に従う。慶長十九年の大坂両陣に従う。同二年、日光普請に従事。寛永五年、江戸に於いて死去。成直は本能寺の変の際、二条城で織田信忠と共に戦死した村井長門守貞勝の族という。

【村瀬吉成】
(市兵衛)。父は村瀬伊豆守、母は藤堂忠高の女。よって高虎の従兄弟に当たる。天正十四年頃より、紀伊粉河に来て高虎に仕える。同年、秀長が家康の居館造営を命じられたとき、高虎の下で台所門の普請を監督した。慶長元年、板島に移り、後、兄弟が罪を得た為、吉成も辞して京都に隠れた。慶長十四年、帰参を許され二百石、高虎より直に金奉行を命じられ鉄砲足軽五人を預かる。

【森川正長】
(弥助)。天正十四年、小給にて召し抱えられる。後、三百石を食す。慶長十三年八月、勢伊転封の後、伊賀の代官を命じられる。大坂両陣には伊賀上野城に留守居。元和三年、予州今治に派遣され山林を督する。

【森 九郎左衛門】
諱不明。文禄元年、召し抱えられ二百石を給される。文禄、慶長の役に従軍。慶長六年正月、射芸に堪能なるをもって騎射長となり藤堂勘解由隊下に属す。大坂両陣にも勘解由隊下に属して従う。後、五十石加増され百五十石。

【森島新右衛門】
諱不明。山城国笠置の郷士。森島丹後の子。慶長十三年九月、高虎が伊賀入国の途上、新右衛門の屋敷に一泊した際に矢倉大右衛門の取次により拝謁し、知行三百石を給された。同時に船三艘を預かり、笠置の川船奉行を命じられる。

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