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藤堂藩士出身の医師達①

 幕末、藤堂家臣の医師であった人や、その子息で明治時代になって活躍、名を知られる様になった人達がおり、最近本を読んでいて経歴に興味を惹かれる様になったので、少し書いてみたい。

 手元の史料の量によるから、順序や内容は不同である。

1.橋本節斎

 

 藤堂藩士・橋本一斎の長男。父の一斎は、藩命で長崎に留学し、オランダ海軍軍医ポンペ、幕臣の蘭方医・松本良順の指導を受け、帰国後は藩校・有造館で蘭学教授をした人物である。墓碑には「二世橋本一斎」とあるから橋本家は幕末になってから藩に仕えたか、分家したものと思われる。

 

 明治元年十二月二十三日生まれ。同二十八年十二月東京医科大学を卒業。同二十九年一月、医科大学副手、同附属医院の医員となる。同年六月、三陸地方を襲った大津波の被害調査の為、岩手県に出張。同三十年医術開業試験委員となり、翌年までこれを務めた。

 同三十二年七月、東京帝国大学医科大学助教授に任じられ、東京市立駒込病院長を兼務。同院は、東京市が特に伝染病専門病院として設置した病院であった。同三十三年、関西で流行していたペストが東京でも発生、その対策に力を注いだ。また同病対策の為、大阪府に出張。更には翌三十四年、福島県師範学校に肺結核忠者が続出したため、また出張してその調査に努めた。

 同三十五年、足尾銅山鉱毒問題による報道拡大により、十二脂腸蟲との関係を調査。同十六年二月、内閣恩給局常務顧問医を嘱託され、同年四月内科学第一講座を担当。

 同四十年、小石川病院を設立し、次長に鰺坂茂彦医師、手島榮次郎医師を招聘した。同院はやがて呼吸器病専門として名が高まる様になる。節斎は、ドイツ等では結核病が減少するのに反して、国内では増加傾向であることから、その研究に傾倒し、回復期の靜養が重要であると判断、後に鎌倉に旅館組織の療養所を設立した。

・近世内科全書、新内科全書、近世診断学を著して、これらの著書は重版を重ね、広く読まれた。

・節斎は当時、「博士号を持たずして大成した医師」と言われていた様である。

父の一斎が留学中に「節斎」と称していたことから、父子を混同している本が複数見られる。

・節斎の子息・龍雄氏も医師となり、医学博士、後に小石川病院長となった。​その後のご子孫の行方は分からない。

・節斎が設立した小石川病院は、昭和十年頃の記録では、内科、耳科、産婦人科設置となっていて呼吸器科の記載がない。同院は小石川区大塚仲町にあり、昭和二十年頃に日本通運に買収されたらしく、日本通運東京病院となった。近年、更に大手病院グループの大坪グループに買収されて、「小石川東京病院」(東京都文京区大塚4丁目45-16)と改称しており、七十余年を経て「小石川」の名が復活した様である。

 ​ ​次は馬場道朔

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