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粟屋家

 大坂陣後、高虎に召し抱えられた粟屋助太夫を初代とする。大坂両陣は城方として戦い、元和元年、三百石で召し出された。


 助太夫について分かっていることは少ない。

「國吉之城粟屋越中以下籠城次第」に越前国吉城主・粟屋越中守勝久の嫡子五右衛門、嫡孫助太夫とある。
 

一方、岡山藩士の由緒書には
「一 祖父粟屋越中守、生国若狭、信長様ニ被召仕、若狭国さがきと申所ニ罷有候・・・親粟屋助太夫、生国若狭、秀頼様ニ被召仕、知行三百石被下候、其後藤堂和泉守殿江罷出、知行三百石給候事」

とあってこちらは勝久の子となっている。
 

 粟屋越中守勝久は、若狭守護・武田氏に仕えて度々朝倉家と戦火を交えた。

 特に永禄六年から十二年までの七年間は、籠城戦を展開し、城を善く固守した。元亀元年頃から織田信長に帰順し、朝倉攻めの先鋒を勤め、信長から賞されたといわれる。後、丹羽長秀に属してその娘を娶ったがまもなく死去。

 何人かの子がいたらしいが、『嗣男長重侯封国減少以後流浪ノ処、稲葉侍従典通扶持シ重臣トシ而子孫代々勤仕ト云、稲葉典通モ長秀侯ノ御娘入輿勝久由緒故也』とあるので豊後臼杵藩に仕えた同族も存在するのだろう。
 丹羽長秀の娘は、勝久に嫁いでいるのでその縁からと思われる。

 粟屋助太夫が高虎に召し抱えとなった際、沢田平太夫元次の仲介によっているが、これは旧知の間柄だったからではないかと思われる。沢田平太夫の祖父に麻生紀伊守がいるが、永禄六年、粟屋勝久と共に国吉城に籠城していた者の中に同名の人物がいるので、その頃からの知己であったのだろう。 


 粟屋助太夫の子は久居藩立藩の際、津附より転じ鎗奉行となったが、子孫の代々の事跡は不明。
 名門武家の末裔であるが、判明しないのは残念という他ない。

 

 高虎に仕えた粟屋家ではもう数家存在し、慶長九年に仕えた粟屋伝右衛門は禄八百石、大坂両陣には黒母衣組、加賞あって千百石となったが後、藩を辞したらしい。子の治左衛門は大坂夏の陣で戦死を遂げた。

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