top of page
桑名弥次兵衛家

桑名弥次兵衛家の初代は一孝です。
 一孝は、長宗我部元親及び盛親に仕えた長臣として史上、有名な人物です。長宗我部家の重臣としての活躍、そして大坂夏の陣での悲壮な決意と戦死は様々な戦記に記されて多くの人の心を打ちました。
 一孝の諱は高知県側の書籍では「吉成」、三重県側の書籍では「一孝」となっています。詳しく調べていませんが「吉成」は、どうも長宗我部地検帳にある記載の様です。八尾常光寺にある彼の墓碑、藤堂家臣・桑名家の史料は全て一孝になっているので、ここでは一孝で統一します。

 司馬遼太郎が長宗我部盛親の生涯を描いた「戦雲の夢」という小説に、盛親の伝臣かつ友人として登場しますので、現代でも良く知られており、盛親の伝臣だったというのは創作ですが、一孝がこの小説にある様に長宗我部家のために一身を擲って尽くしたこと、そして最期に旧主である盛親の軍勢と戦って壮絶な最後を遂げたことは事実です

 一孝の経歴は、藤堂家臣・桑名又右衛門家に伝わる「竹心遺書」に明らかです。これは一般には「桑名弥次兵衛一代之覚書」といった名称で流布している様ですが、又右衛門家所蔵の同書はその原本です。内容としては一孝の末弟である桑名又右衛門一重が、自らの養子である一吉に書いて与えた一孝の一代記ですが、一吉は実は一孝の実子で叔父の養子となっています。つまり実父の経歴を叔父が記憶を基に記して与えたものです。
 
 一孝は、長宗我部家臣の中でも累代の重臣である中内家の出身です。兄の藤五郎が元服の際、共に長宗我部元親に拝謁した処、元親が「弟の方も元服の望みがある様だぞ」と周囲に話したので、その場で元服することになったといいます。成長後、実家と同様に重臣である桑名家の婿養子となって桑名姓を称します。

 天正四年、元親の弟・吉良親貞の死去により、その後任として養父・桑名藤蔵人が土佐国幡多郡の中村城代となった時、養父と共に中村城に転居しました。養父の死後、二十四歳で城代職を引き継いだといいます。同六年の讃岐侵攻を初めとして、翌年の阿波侵攻に従軍し、同十年の中富川合戦に参加して大功を挙げました。さらに翌年から伊予国侵攻にも従軍します。

 天正十三年、長宗我部元親は四国制覇の夢も虚しく秀吉へ降伏。一孝は羽柴家への使者を務め羽柴秀長、ついで秀吉に拝謁しましたが、このとき秀長の家老を勤めていた高虎と知り合いました。

 同十四年、秀吉の命により元親は大友氏救援のため豊後国へ出陣。一孝もこれに従軍し、十二月、史上有名な戸次川合戦に臨みますが、この戦いは仙石秀久の判断ミスもあり、大友・四国連合軍の惨敗で終わります。この戦いで長宗我部家は世子・信親を含む多くの家臣を失い、これが後の長宗我部家の運命を暗転させることになりました。一孝は、激戦の中、元親を守りつつ何度も島津家の追撃を振り切ります。また途中、同僚の安並玄蕃が負傷して落馬した際には、周囲の制止も聞かず敵中に取って返し玄蕃を自らの馬に担ぎ上げ、撤退することに成功します。

 九州平定後は元親に従い、文禄・慶長の役に従軍し、辛酸を嘗めます。元親の死後はその後継者・盛親に仕え、若い主君を補佐しました。
 慶長五年、関ケ原役に際し長宗我部盛親は西軍に加担、一孝は先手大将を命じられ、各地を転戦、九月十五日の関ケ原の戦いにも従い、西軍の敗戦後は追撃の軍勢を振り切りつつ、土佐に引き上げました。

 同年、長宗我部家は西軍加担の罪を以って改易となります。
 一般的には井伊直政を通じた釈明により罪を許される筈だった処、盛親が異母兄・津野親忠を家督簒奪の恐れから殺害し、親忠と親しかった藤堂高虎がこの事実を家康に告げたため、改易が確定したと言われていますがこれはちょっと眉唾です。これが本当なら長宗我部家改易・除国の直接の引き金を引いたのは高虎となり長宗我部家に取っては許し難い対象である訳ですが、直後から藤堂家には長宗我部旧臣達が続々と仕官している事実と相容れません。

 武功が広く知られた一孝の元には仕官話がかなり舞い込んだ様ですが、高虎は是非とも一孝をスカウトしたかったらしく、与力共で七千石との提示をします。宇和島8万石から20万石に躍進したとはいえ、これはかなり思い切った待遇といえるでしょう。このとき高虎は盛親とも直に交渉しました。

御状拝見申候仍弥二兵衛事先度申談候ことく主身にあてて弐千石可遣候と申入候今以其分に候よりき衆之事はならさる儀に候に候さりとてはならさる事何角被申候はなんたにて候左様の事に候か今度あしよわなともひかれさるよしに候猶以此方使者江申入候 恐惶 かしく 三月廿四日 さと
長右衛門殿

 一孝は、盛親とも相談した上のことでしょう、結局隣国の藤堂家に仕官することを決心し、与力として親族や近しい者達を引き連れて今治に赴きました。長宗我部家の家臣達は侍組として編成され、一孝の指揮下に置かれます。後にこの一隊は「土佐組」と呼ばれます。一孝自身の禄は二千石でしたが、後に加増され二千五百石となりました。
 慶長十三年、勢伊転封に伴い、一孝は伊賀上野城附となります。このとき菩提寺である妙華寺も上野に移転させています。

 同十九年、大坂冬の陣への出陣が下命され、一孝は当然、かつての主君である長宗我部盛親が大坂城に入城した事実を知っていたでしょう。「できるなら戦場で邂逅したくない」と願っていたかも知れません。幸い、冬の陣ではその様な機会に陥ることなく帰国することができました。

 しかし一孝の願いも空しく、翌元和元年、再度大坂夏の陣が発令されます。

 このときの一孝指揮下の侍組は大部分は一孝の親族で、無論かつては長宗我部家に仕えた者達でした。出陣にあたり覚悟を決めていたのでしょう。一孝を含め複数の者は、高虎に対して誓紙を提出していました。

 五月六日、一孝は眼前にかつて見慣れた長宗我部家の旗印を目にして、暫し瞑目したかも知れません。
 前方に居並ぶ敵の軍勢の主だった者は、おそらくかつて共に戦った戦友達でした。しかしこの期に及んで迷いは許されません。一孝も、その指揮下の者達も雄叫びを上げて長宗我部家の軍勢に突入、激闘を繰り広げます。

 一孝は普段から「戦場に出たら太刀と脇差を、両方使わねばならないほどの働きをして、死にたいものだ」と言っていましたが、この時、盛親の臣・近藤長兵衛に槍で胸を突き通され、刀で相手の槍を切断してなおも戦い、太刀が折れた後は脇差を抜いて戦って、遂に斃れたといいます。

常光寺の墓碑にはこうあります。
「諱一孝称弥次兵衛姓桑名土佐世顕慶長国除旧知與七千石命騎将・・・夏與高刑当盛親鑓近藤鑓折揮刀折握七首死歳五十八・・・先是盛親?聘辞曰旧恩懐一死報徳果践其言・・・」

桑名家はその後、嫡子・将監一久が継ぎ、弥次兵衛と改名。士大将職を勤めたのは一孝一代限りで、後に禄高も減少しましたが、上級家臣として明治に至りました。


中内藤左衛門
某 ────────┐
┌─────────┘
│ 中内藤五郎、又兵衛。天正十四年十二月、戸次川にて戦死。
├某

│ 初代 桑名藤蔵人養子となる。桑名弥次兵衛
├ 一孝───────────────────────┐ 
│ 元和元年、八尾にて戦死。五十八歳。        │
│                          │
│ 中内藤吉郎、桑名源兵衛。桑名源兵衛家初代。    │
├ 一友                       │
│ 元和元年、八尾にて戦死。             │
│                          │
│ 藤十郎                      │
├某                         │
│ 天正十一年、讃岐引田にて戦死。          │
│                          │
│ 桑名又右衛門。又右衛門家初代。          │
├ 一重                       │
│ 正保二年、死去。                 │
│                          │
└女子 西内九郎右衛門室               │
┌──────────────────────────┘
│ 二代 将監、弥次兵衛
├ 一久───────────────────────┐
│                          │
├ 一吉 兵助、叔父又右衛門の養子となり二代又右衛門 │
│                          │
├女子 浅木三郎右衛門一氏室             │
├女子 依岡左京室                  │
└女子 日野主計室 後、岡山勘左衛門室        │
                           │
┌──────────────────────────┘
│ 三代 弥次兵衛
├ 一次 
│ 室は藤堂仁右衛門二代高経の娘

└女子 藤堂与吉初代良安室 


 

bottom of page