藤堂高虎
藤堂高虎とその家臣
藤堂長兵衛家
藤堂長兵衛家の家祖は、渡邊勘兵衛了(さとる)の子・長兵衛守(まもる)です。
勘兵衛と高虎の不仲は世によく知られていますが、二人が親族を通して実はごく近い関係にあることは
意外と知られていません。つまり勘兵衛の長男・守の妻が高虎の妹・華徳院であって、その長男・守胤は、
勘兵衛の孫であると同時に高虎の甥でもあります。
さらに華徳院は、初め山岡長門直則に嫁してその死後、守に再嫁しましたから、守胤は後の久居藩筆頭家老
・藤堂源助直廣の異父弟でもあります。
大坂の陣に於ける評価を巡り対立し、最後の最後まで高虎と和解せず、度重なる帰参の申出や仲介に
応じなかった勘兵衛の血脈は、不思議なことに藤堂家の重臣として残ったのです。
渡邊長兵衛守は慶長六年、父・勘兵衛と共に今治に於いて高虎に仕え三千石を給されています。
同十九年、大坂冬の陣には父・了とともに左先鋒を務め、翌元和元年の夏の陣には、先鋒を辞退した父の侍組
を預かり中軍士大将を務め同陣の功により千石加増され四千石となっています。元和元年、父が改易となり
上野城を退去した後も高虎の妹婿である縁からでしょうか、藤堂家に残留しましたが、三年後の元和四年七月、
若くして病死しました。
守の長男・守胤は、父の死去時僅か6歳であったため家督を継いだものの四千石の知行は召し上げとなり、
蔵米五百石を給されました。祖父が藤堂家と断絶状態とはいえ、守胤は高虎の甥であり、二代藩主・高次の
従弟でもありますから、そのまま藩主のごく近い血縁者として成長します。
しかしやはり勘兵衛と藤堂家の関係が色々影響したのでしょう。24歳のとき、母を置いて藩を去り、
近江国坂本に住む祖父・勘兵衛を頼りました。
2年後に勃発した島原の乱に陣を借りて参戦しましたが、「一揆如きの籠城に事々しく参陣するとは
未熟者の行い」と却って勘兵衛の怒りを買ってしまい勘当されたといいます。
祖父の死後、7年の浪人生活を経て、藤堂家から申し入れがあったものか、幕府重鎮の仲介で藤堂家に帰参、
千五百石を給されました。その後は藤堂家の重臣として勤務し、寛文十年、藤堂姓を称する様に命じられます。
以後、子孫は幕末まで藤堂長兵衛を通称としました。
渡邊周防守
任 ────────┐
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│ 勘兵衛 実は渡邊右京介高の子
└了 ────────────────────────┐
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│ 初代 長兵衛
├守 ────────────────────────┐
│ 三郎兵衛 本多能登守に仕え千五百石 │
├某 │
│ │
│ 三十郎、隠居後不唯 堀田上総守に仕え二千石 │
├恵 │
│ │
└女子 速水三郎左衛門室 加賀前田家にて千三百石 │
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│ 二代 藤堂長兵衛 室は藤堂仁右衛門(二代)高経の娘
└守胤 ───────────────────────┐
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│ 三代 藤堂長兵衛 室は藤堂采女(三代)高稠の娘
├守勝
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│ 四代 藤堂長兵衛
└守門