藤堂高虎
藤堂高虎とその家臣
藤堂太郎左衛門家
藤堂太郎左衛門家の初代は重政です。
重政は藤堂讃岐守重高の子で、系統上は高虎の父・虎高の従兄弟に当たります。もっとも高虎とさして歳は変わらなかった様ですので、豊臣秀長の家臣として頭角を顕しつつあった高虎の近しい縁者として、また信頼できる補佐役として馳せ参じたものと思われます。
天正七年頃から高虎と行動を共にした様ですが、詳しい従軍の様子は分かっていません。重政の経歴が詳しく出てくるのは慶長の役において日本が海戦で勝利を収めた際、その報告のために帰国した下りで、重政は秀吉に直接謁見の上、報告しています。この時、重政は秀吉から労われた上、脇差と陣羽織を下賜されています。
その後、これも真相は分かりませんが重政は突然、知行を返上して隠居してしまいました。関が原戦に留守居を命じられたことを恨んでとも言われていますが、詳しいことは分かっていません。
当時重臣の一人であった重政には4人の息子がおり、当然、父の隠居後は高虎に召しだされてしかるべきでしたが、父が役職待遇を返上してしまったことから許可されず、また高虎の近親とあって他家に奉公する訳にもいかず、ひっそりとした暮らしを余儀なくされます。重政は、出仕を止めた二年後、慶長11年に死去しました。
高虎と確執のあった重政の死去によって、息子達に漸く出仕の道が開かれることとなり、長男・重方は新知三百石を与えられ、大坂両陣には藤堂出雲高清の与力として従いました。重方の子孫は、久居藩立藩時に同藩に転じて以後、久居藩士となっています。なお、次男以下は前記の様な事情から藤堂姓を使うことを憚って、母方の内堀氏を称しています。
次男の重次は、慶長十九年に高虎に召し出され世子・高次の附臣となります。高次の二代藩主襲封以降も側にあって精勤に務め、やがて大目付に抜擢、さらに家老に進み、晩年に至って藩主・高次から改めて藤堂姓を称する様にとの指示が出され復姓、禄も千五百石まで累進しました。
三男の重之も元和五年に至って高虎に召し出され、次兄と同じく世子・高次の附臣となり、高次の二代藩主襲封以降新知二百石を給され、さらに信認を得て次兄同様、大目付を勤めました。
藤堂兵庫助
高信────────────────────────┐
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│ 藤堂越後守、九郎左衛門 又名忠高
├良隆────────────────────────┐
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│ 主馬助 │
├高春 │
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│ 讃岐守 │
└重高──────────────────────┐ │
住江州八幡山 │ │
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│ 初代 室は内堀伊予守娘 │
└重政──────────────────────┐ │
住江州八幡山 │ │
天正年中以来仕高虎公数度戦功千三百石 │ │
慶長十一年没 五十三歳 │ │
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│ 二代 兵右衛門、太郎左衛門 │
├重方───────────┐ │
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│ │ 三代 初内堀清十郎 太郎左衛門 │
│ └重綱────────┐ │
│ 仕久居藩 │ │
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│ │ 四代 太郎左衛門 │
│ └重晴────────┐ │
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│ │ 五代 与十郎 │
│ └重晴 │
│ 享保十九年八月没 家絶 │
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│ 内堀弥五左衛門、後復藤堂 又名重次 │
├信次 │
│ 寛文三年家老、千五百石 │
│ 藤堂弥五左衛門家初代 │
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│ 内堀六左衛門 │
├重之 │
│ 仕久居藩 │
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│ 内堀清太夫 │
└重太 │
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│源助
├虎高─────高虎
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│ 勝兵衛、将監。実は多賀豊後守高忠次男
├良直
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│ 新助。実は多賀豊後守高忠弟・良氏の子
├良政
├女子 村瀬伊豆室
├女子 箕浦作兵衛忠秀室
├女子 藤堂新助良政室
├女子 藤堂将監良直室
├女子 匹田勘左衛門常時室
└女子 丸毛兵庫助室