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坂井家

 丹羽長重旧臣で高虎に仕えた坂井土佐直義を初代とする。

 丹羽家では千五百石取りであった。慶長十四年、高虎に召し出され、千石を給されて母衣組に列する。大坂両陣には黒母衣組に所属し、翌年の夏陣には黒母衣組の母衣頭を務めて大功を挙げ『四本鑓』の一人に数えられた。

 直義の父・与右衛門直政もまた高名な人物である。今その伝記をあげれば次の如くである。

 「越前の産、坂井右近同族と云、始め濃州に至り斎藤龍興に仕へ軍功の処、故有て退去、京都に到て足利の将軍義輝公に奉仕の時、永禄年中三好の族柳営を圍て狼藉の時直政粉骨を尽し防之、逆賊を撃て鎗を合すること都合六度也、是六條表の花鎗とて世に賞せし由、其後長秀候江奉仕以来軍忠別て志津嶽合戦高名有て越前江移封の時采邑を増し八千石を授けらる、間もなく長秀候薨長重候若州江移封の節供奉、江口正吉と共に棟梁の臣となる、以来加州松任江供奉、再文禄四年小松江移封の節太閤深慮有て重臣の事御尋有之、長重候直政と江口正吉を告げらる、因て小松御領の内にて太閤より一万石宛直政正吉江可遣旨公命を蒙られ充行る、依て両人の権勢諸士の敬いも専らの處、慶長五庚子石田三成の逆心にて三成大谷吉隆下知にて種々計策の事有て前田家大聖寺城を攻落引取の節、後殿長連龍の末兵を浅井縄手にて渡り遮り撃の時直政も出張す、右の御合戦に因て長重候封邑被召上御幽居に付、直政同年越前黄門秀康卿江召出され一万石を賜り子孫相続と云、但姓名は酒井と号すとも云、本文直政嫡若狭三千石、次男土佐二千石、三男八右衛門千石、如此長重候賜之処、何も退去、越前家加州家藤堂家奥平家等江出勤子孫相続と云」

 なお、直政の子供達は、それぞれ別家に仕官した。

 長男 坂井若狭重勝

 結城秀康、松平忠直に歴仕して三千二百石

 

 三男 坂井平八郎直冬

 豊臣家に仕えて三千石

 四男 坂井八右衛門直政

 前田利家、利長に仕えたが、慶長五年、前田家と丹羽家が戦うことになった際、父と戦う事を嫌って前田家を辞した。後、福島正則に仕えて、正則の改易後、再び前田家に仕え七百石を与えられた。

 同族にも歴史上顔を出す人物が多く、尾張国守護代清洲城主・織田氏の臣・坂井大膳亮定尚、その子で信長に仕え、姉川合戦に於いて朝倉家家臣・前波藤右衛門景当と戦って討死した坂井右近正尚、定尚の弟・坂井甚助直家の子で信長・秀吉に仕えた坂井下総成利などがいる。

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