top of page
​高虎家臣 氏名 ら~ん 迄

【力石覚右衛門】
元、中村式部少輔一氏臣。良連の弟。天正十四年、兄の手引きで高虎に謁した。慶長五年十二月、兄の戦死により遺禄五百石を給される。後、加増され禄千石。同十九年、大坂冬の陣の際には右先手足軽大将として鉄砲足軽二十人を率い、翌年の夏のは陣には黒母衣組に属した。

【力石良連】
(治兵衛)。天正十年、高虎に随身する。慶長二年、朝鮮再陣に従い南原城に於いて片手を切り落とされた。同五年、関ヶ原陣の折には板島に留守居を命じられる。九月、宇和郡松葉村の郷士・三瀬六兵衛が毛利家と通じて兵を挙げた際、治兵衛は兵を率いてこの鎮圧に向かったが敵に射たれ戦死。

【若原良紀】
(大学、信濃、一郎左衛門、号・自休)。若原右京亮良長の子。父の良長は池田輝政に重用され四千石余を食む重臣であった。輝政の死後、その専権振りを輝政継室と家康より糾弾されたが、良長は堂々とこれに反論し、申し開きは立ったものの改易され、播磨国内で蟄居を命ぜられた。高虎は良長の旧知であったことから家康・秀忠に免許を願い、これにより良長は免許を得た。良紀は大坂両陣には浪人分で池田家臣・若原監物に属したが、元和三年、池田家を辞して父と共に高虎の元へ来、月俸五十口と田丸城下に屋敷を与えられた。元和六年、父・良長の死去により新知千石を給される。

【渡辺 重】
(八左衛門、高之介)。吉の子。慶長五年九月、藤堂玄蕃良政の取次により召し出され高虎の馬廻りに列する。同年十二月、関ヶ原陣の於ける功により二百石を給された。同十九年、大坂冬の陣は渡辺内膳隊下に属し、翌年の夏の陣には藤堂新七郎隊下に属す。寛永四年、父の死去により高之介と改称。同七年、高次襲封の時、二百石加増され四百石、徒士頭となる。後、百石加増され伊賀の普請奉行となる。

【渡邉 了】
(勘兵衛、印斎、号・水庵)。号は睡庵、推庵とも。渡邉右京の子。後に渡邉周防守任の養子となる。永禄五年、近江国浅井郡速水庄に於いて出生。阿閉淡路守貞征に仕え、十六歳で初陣。天正六年、十七歳の時、貞征に従い摂津国吹田城攻撃に従軍し一番首を挙げ、信長より賞された。同七年、同国有岡城攻めに於いても一番乗を遂げ、貞征から母衣を許され、また、その妹を娶せられた。同九年、伊賀国長田・法華城攻めに従い功あり。同十年、秀吉に召し出され百人扶持を給され、同年、糠山城攻めの折、一番乗の功があった為、羽柴秀勝(秀吉の養子・信長の四男)の附臣となり二千石を給された。天正十一年、秀勝に従い伊勢国矢田山攻撃、また賤ヶ岳合戦に従い、同十三年、阿波国一之宮城攻めに従軍。同年十二月、秀勝の死去により辞して浪人となったが、中村式部少輔一氏に招かれて仕え、三千石を給された。同十八年、小田原征伐に従軍し、伊豆国山中城攻撃で一番乗の大功を挙げ、秀吉より「捨てても一万石は取るべきもの」と賞され、天下に名を轟かせた。同年、恩賞に不服があり、中村家を辞去し高野山に引き籠もった。後、増田長盛に招かれ客分として合力米一万俵を給された。慶長五年、関ヶ原陣の時には大和郡山城を守備し、東軍に包囲されたが、長盛の書状なくば開城せぬと言い張り、一戦も辞さぬ態度を示し、長盛からの書状が来るに及んで漸く城を東軍に引き渡した。この時、城を包囲した高虎に招かれ、その後、家康や堀尾吉晴からも招かれたが、同年冬、先約した高虎の元へ赴き、二万石を給された。翌年から今治城の普請奉行を務める。同十三年、勢伊転封の際、伊賀城代となる。同十九年、大坂冬の陣には左先手を命じられ馬上四十騎・旗十二本で出陣した。同陣に於いて高虎と意見の衝突を生じ、左先鋒を外された。翌元和元年の夏の陣には息・守に属して出陣。同年九月六日、改易の上、伊賀を辞去した。元和四年、土井利勝を頼り高虎の奉公構いの赦免を願い出たが、幕府より拒否され、奉公したければ会津蒲生家へ出る様、勧められた。しかし幕府直参に拘り、蒲生家などは例え五、六万石でも奉公しないとこれを拒んだ。同九年、天海よりも蒲生家への仕官の勧めが来たが、この時も例え高虎の赦免があっても幕府より他に仕える気は毛頭ないと拒否した。寛永五年八月、高虎の意を入れた利勝・天海より再び藤堂家への帰参を勧める申し入れがあった。以前の禄二万石を給されるのを初め、子にも禄相違なく跡目を立てさせる上、讃岐へ後見に出るなら二万石の他、与力も付けようという破格の好条件であったが、了はこれをも拒否した。同年十月、高虎は今度は以心崇伝と板倉重宗の協力を請い、両人より帰参の申し入れがあったが、了は十四年間も逼塞しているので心身ともに疲れ果て、寄る年波に物忘れがひどく、その旨察せられたいと虚偽の返答をし、これを断った。その後も高虎より天海を通して帰参を勧める申し入れが度々あったが、その度に断り続け、寛永七年、旧主・高虎が死去すると、長年閑居した坂本を出て、江戸に上がり旗本・村上次郎左衛門の宅、ついで浅草寺に逗留し、天海・土井利勝・酒井雅楽頭を頼んで藤堂家よりの奉公構い赦免の運動を起こした。しかし、天海より高次にその申し入れがあった際、高次がこれを一蹴したので全ては御破算となった。これにより近江坂本に戻り、ついで京都に住んだ。天下の浪人の筆頭の様に称され、徳川頼宣・堀 直寄・細川三斎など歴々の諸大名から捨扶持を受けながら過ごしたという。寛永十七年七月二十四日、死去。七十九歳。室は阿閉淡路守貞征の妹。

【渡邉 守】
(長兵衛)。勘兵衛了の子。母は阿閉氏。生国・近江。慶長六年、父と共に今治に於いて召し出され別禄三千石を給され、高虎の命によりその妹を娶った。同十九年、大坂冬の陣には父・了とともに左先鋒となり、翌元和元年の夏の陣には父の侍組を預かり中軍士大将を務め、五月六日の戦闘で先鋒の新七郎らが全て戦死してしまった為、七日より右先鋒となった。同陣の功により千石加増され四千石。元和四年七月四日、死去。

bottom of page