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​高虎家臣 氏名 か~こ 迄

【柏原定良】
(新兵衛、号・道喜)。柏原彦兵衛入道旅庵の子。父は足利将軍家に仕えたという。定良は青木紀伊守、寺沢志摩守に仕え文禄の頃は中村一氏に仕えるという。慶長十年頃、高虎に仕え千石を給される。大坂両陣には赤母衣組。陣後、戦功により二百石加増される。高虎の死後、藩を去って道喜と号して京都に住む。

【加藤甚右衛門】
加藤嘉明の親族、一説に庶子ともいう。慶長六年頃、嘉明の命に背き蟄居、山林の支配を命じられた。この頃、甚右衛門は酒を飲んで鬱憤を晴らしていたが、高虎の臣下の者から造酒を学んでその妙を得、この時から高虎に好意を寄せたといわれる。今治城築城の折、甚右衛門が高虎に材木を融通したのが嘉明に露見し、激怒した嘉明によって討手が掛かった。これを知った甚右衛門は高虎の領内に逃げ込み、高虎に保護された。寛永四年、高虎の推薦により会津若松に転封となった嘉明は高虎の屋敷に来て年来の不和解除を願ったが、この時、高虎が甚右衛門の勘気の免許を請願した為、潜伏の身から解放された。ただし嘉明が仕官はならずとの条件を提示したので、高虎は甚右衛門を岩田町より南の町司とした。

【加納直成】
(藤左衛門、忠左衛門)。加納氏は近江国坂田郡加納村の出身という。文禄元年、高虎に召し抱えられる。同年、紀伊粉河に於いて百石を給された。慶長の役に従い、帰陣後、五十石加増され百五十石となる。慶長五年、関ヶ原陣の折には板島にとどめ置かれたが、後、大坂屋敷に詰めた。功により加増。同十九年の大坂冬陣には藤堂出雲隊下に属し、翌年の夏陣にも無断参陣した高清に従い参加した。この頃、禄は四百石。帰陣後、叱責され蟄居。

【蒲生郷喜】
(源三郎、源左衛門)。蒲生源左衛門郷成の子。父の郷成は初め坂 源次郎と称し関小十郎右衛門、柴田勝家、次いで蒲生氏郷に仕えて戦功を上げ、氏郷から蒲生姓を与えられ偏諱を受けた。氏郷が奥州に封ぜられた際は白石城四万石を預けられるという。氏郷の死後はその子・秀行に仕え、宇都宮減封の際は笠間城三万石を与えられ仕置奉行の筆頭となる。蒲生家会津復封後、三春城代三万石となったが、慶長十四年、重臣・岡半兵衛重政と対立し蒲生家を辞した。この時、郷喜も父と共に蒲生家を辞し浪人となり、元和二年、高虎に七千石という高禄を以て招かれた。この時、弟・源兵衛郷舎も三千石を与えられた。慶長十九年六月、父の郷成は家康の命により蒲生家に帰参したが、道中、須賀川の駅で病死した。後に家康より郷舎兄弟の蒲生家帰参が命じられた為、藤堂家を辞して会津・蒲生家へ帰り、三万石を給された。蒲生家断絶後、浪人となり、子孫は日向国内藤家に仕えた。

【菅 道長】
(平右衛門尉)。諱は達長とも。菅氏は淡路の豪族で元、淡路洲本城主。天正十一年頃は長宗我部元親に与し秀吉に敵対。その後、四国征伐に当たって降伏したらしく秀吉の海賊方となる。その後、九州征討、小田原の役に秀吉の船手として従軍。文禄元年、朝鮮役に船手として出動。慶長の役にも同じく船手として従った。一万石余の大名であったらしいが、所領の所在は不明。慶長五年、関ヶ原戦の際に西軍に与し失領。同年、高虎の奔走により赦免され、その家臣となり合力米五千石を給された。朝鮮役の際、加藤嘉明と高虎が戦功争いをした際、脇坂安治と共に高虎の味方をした為、懇遇たりという。同十五年、丹波亀山普請に従事。同十九年、大坂冬の陣には右先鋒の相備となる。陣後、大坂城堀埋立ての際に高虎と口論して切腹させられた。埋立てに際してその怠慢を詰られた道長が口答えをした上、脇差しに手を掛けたのが原因といわれる。

【菊川正保】
(源太郎)。元、筒井定次臣。菊川氏は伊賀の豪族。慶長八年、保田甚兵衛の肝煎と采女元則の取次により召し出され二百五十石を給された。慶長十三年、勢伊転封の際には諸人に先立ち伊賀に赴き裁判した。同十六年、伊賀上野城普請の材木、巨石等の調達と運送に才覚を発揮し、その功により百五十石加増される。同十九年の大坂冬陣には左中軍の足軽大将、翌、元和元年の冬陣には組外の士となった。元和二年、百四十石余加増、五百十四石三斗となる。室は藤堂新七郎良勝の女。

【貴志作左衛門】
諱不明。元、毛利輝元臣。後、姓を改め岸とした。寛永三年、安藤源太夫、佐久間九郎右衛門の取次により、大坂に於いて召し抱えられ禄百石月俸十口を給され大坂邸の邸吏となる。同十六年、江戸詰となる。寛永十六年、矢守市内と交代し江戸詰めとなる。後にまた大坂邸吏となったらしい。

【岸田遠近】
(勝右衛門)。岸田伯耆守遠國の次男。筒井家重臣で阿保城主であった岸田伯耆守遠正の弟。岸田氏は大和の国人で、越智氏の代官として活躍した。天正十五年、紀州粉川に於いて高虎に召し抱えられた。文禄三年、伊予入封の際に知行千石、町奉行役を命じられる。慶長十三年、勢伊転封の際、伊賀の町奉行となる。慶長十六年早春、伊賀上野の町割普請を指揮する。大坂両陣には上野城に留守居し、その間、大坂方と内通し一揆を画策した者を摘発した。

【九鬼広隆】
(四郎兵衛)。天文二十年出生。父は伊勢山田の長官・松木修理政彦、母は九鬼嘉隆の妹。嘉隆に養われて九鬼氏を称す。十八歳で初陣。後、信長の三男・信孝に属し、所々で戦功を挙げる。信孝の自害後、浪人となり紀伊国和歌山の桑山重晴に招かれて屋敷を与えられたが、自分の屋敷から火事を出した事により重晴の元を辞した。その後、池田長吉、次いで加藤清正に仕える。天正十七年、肥後一揆の際には清正より後勢の指揮を命じられ、天草に向かうが一揆は既に鎮圧されていた為、軍を返す。文禄元年、朝鮮役に従い軍功あり。慶長の役にも従軍。帰国後、加増の沙汰がないのを憤り、清正の元を退転し大坂へ出る。其後、石田三成より招かれたが応じず、黒田長政に招聘され普請奉行を命じられる。後、黒田家を辞去して小早川秀秋に仕えて三千石。慶長七年、秀秋の死去により浪人となる。その後、高虎に招かれ無役で千石。慶長十九年、大坂冬の陣には幟奉行となり、陣後、戦功により三百石加増。大坂夏の陣の後、高虎の元を辞去し江戸に住む。室は清正の姪。後妻は不詳。子孫は紀州家に仕えた。広隆は天下に知られた高名な渡り浪人で、清正の兜に纏わる忠義の逸話が有名である。

【草野権右衛門】
諱不明。父は草野某。母は藤堂忠高の女。よって高虎の従兄弟にあたる。慶長四年、藤堂作兵衛の取次により召し出され二百石を給される。慶長十四年、致仕。

【葛原元庸】
(半四郎、半太夫)。越前の浪士といわれる。慶長十三年、石田清兵衛の取次により伊賀上野に於いて召し抱えられ二百石を給された。大坂両陣には藤堂采女元則隊下に属し参加。陣後、報奨として銀一枚。寛永八年、病により歩行頭を免じられる。

【栗田正行】
(清左衛門)。栗田宮内友親入道宗徳の子。父の宗徳は元、宇都宮頼業の臣で伊予国喜多郡・龍王城の城代であったが、宇都宮氏没落の後は五十崎に隠遁していた。慶長五年、関ヶ原陣の折、毛利家と通じて三瀬六兵衛が一揆を起した際、細井久助の依頼を受けてこれの鎮圧に協力した。この功をもって同年十二月、子の正行が召し抱えられ二百石を給された。同十九年の大坂冬の陣には中軍の足軽大将となり鉄砲足軽二十人を率い、翌年の夏の陣では組外馬上士となる。

【桑名一孝】
(中内藤次郎、弥次兵衛)。元、長宗我部家臣。実父は中内藤左衛門。一孝はその次男で、後に桑名藤蔵人の婿養子となり桑名氏を称す。十一歳の時、実父・兄と共に元親に拝謁し、元親の意により元服。天正四年、吉良親貞の死去により桑名藤蔵人が土佐国幡多郡の中村城代となった時、養父に従って中村城に入る。養父の死後、二十四歳で城代を引き継いだ。同六年夏、讃岐国藤目城攻撃、同七年の阿波侵攻に参加。また同十年八月、中富川合戦に参加。この時、一孝は甲首二を挙げた。続く阿波一ノ宮城攻めに参加し、ここでも戦功があった。同年より翌十一年、伊予御荘の勧修寺氏攻撃に参加。天正十三年、長宗我部元親は秀吉への降伏を決定。一孝は使者として豊臣秀長、ついで秀吉に拝謁し、秀吉より鞍鐙を賜ったが、この時、高虎と知り合ったという。同年、秀吉への謁見の為、京都へ上る元親に随行。元親に従い秀吉に拝謁した後、家康にも拝謁し呉服を賜った。同十四年、秀吉の命により元親は大友氏救援の為、豊後へ出陣。一孝もこれに従軍し、十二月、戸次川合戦で惨敗した元親を守り、府内への撤退戦で活躍し名を轟かせた。翌年、南下する豊臣秀長に従い高城攻撃に参加。同十六年、長宗我部家後継者争いに絡んで比江山親興が切腹を命じられた時、この検死役を勤めた。文禄元年、元親に従い朝鮮陣へ従軍、侍組六十七人を指揮した。慶長の役にも従軍。慶長五年、関ヶ原陣に於いて長宗我部盛親は西軍に加担、一孝もこれに従い先手大将を勤め、西軍の敗戦後、盛親を守って土佐へ引き上げた。帰国後、盛親が兄・津野親忠を殺したことが家康の怒りを買い、長宗我部家は没落、除封となった。山内氏の土佐入封の際、これに抵抗を試みる長宗我部遺臣が浦戸一揆を起こしたが、一孝は策を以てこれを鎮圧、浦戸城を接収し明け渡した。慶長六年、一孝と旧知であった高虎は書を以て一孝を招き、また長宗我部盛親とも直談して、これを家臣とした。この時、蜂須賀家政より一万石で、また井伊直政よりも招かれたが、故あって高虎に仕えた。一孝は親族、また土佐国での付属の士を連れて伊予に移り、二千石を給された。慶長十二年十月二十七日、五百石加増。同十四年八月、七千石の侍組、鉄砲足軽四十人を預けられ一備の騎将となる。同十九年の大坂冬陣には右先鋒の相備となり侍組二十一騎を率いて出陣、翌元和元年の夏陣に於いては左先鋒の相備となり、旧主・長宗我部盛親の軍勢と戦い、五月六日、戦死。五十八歳。大坂戦没六将の内の一人。一孝を討ち取ったのは盛親の臣・近藤長兵衛という。

【神田通明】
(六右衛門)。元、伊予国来島城主・来島右衛門一康親の家臣。康親が慶長五年、関ヶ原戦後の処理によって、豊後国玖珠郡森に転封になった際、そのまま居残り、康親の旧領を領した高虎に一族まとめて召し抱えられた。なお、この時、召し抱えられた者達は一侍組に編成され、同年四月、須知出羽定信の麾下として旧来島家の城・尼崎城に配置された。以後、この侍組は来島組と称される。神田氏は元は姓を「高田」と称したが、後、高虎の偏諱を使う事を憚って「神田」に改姓した。通明は慶長六年、藤堂次郎左衛門の取次により召し抱えられ百二十石を給される。大坂両陣には須知主水隊下に属す。陣後、八十石加増され二百石となる。

【小浜直隆】
(左門、内多三郎右衛門)。父は小浜民部少輔光隆、母は内藤修理亮清成の女か。小浜氏は元、伊勢国小浜を領した水軍衆で、直隆の祖父・景隆の時に甲州武田家に仕え、その滅亡後、家康に属した。父の光隆も船手の将として家康に仕え、関ヶ原陣、大坂陣の際に水軍を率いて軍功を挙げた。直隆は慶長十四年、高虎に召し抱えられ五百石を給されて船奉行を命ぜられる。大坂両陣には松本雅楽と共に船手として従軍。元和年中に姓名を改め内多三郎右衛門と称す。

【小森定勝】
(伊豆)。近江田付の出身で、初め田付姓を称すと伝わる。本名は雨森氏か。堀 秀政、その死後は堀 秀治に仕えて二千石を領し、越後糸魚川の城代を勤める。堀家改易後、新たに越後を領した松平忠輝に仕え、そのまま糸魚川の城代を役した。元和二年、松平家改易により再び浪人となり、同年、堀 丹後守直寄の肝煎により高虎に召し抱えられ、五千石を給された。元和三年、嫡子に五百石を分知。寛永二年、致仕し先に子に分知していた五百石を茶料として給された。

【小森氏則】
(少右衛門)。慶長元年、召し抱えられ二百石を給される。同五年、関ヶ原陣に従い、帰陣後、二百石加増され五百石、弓役となる。大坂両陣には藤堂勘解由組に属す。陣後、報奨として金子一枚。元和二年六月十三日、死去。

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