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藤堂高虎
藤堂高虎とその家臣
伊東家
たまたま入手した伊東家の記録から。最初は伊東弥三右衛門家のものかと思っていたのだが、異なる家であった。
本記録は幕末から明治に掛けて伊東家の当主であった伊東弥七祐吉のまとめたもので、断片的なものである。
同家は定府の家臣であった模様で五代目までの代々の当主はいずれも、東京小石川に葬られている。
同史料には、初代・祐章の養母について「養母霊光院は藤堂数馬家多羅尾氏なることは伝聞す」とある。
この霊光院は二代藩主・高次の側室で於多阿といい、姉の浄明院も同じくの高次の側室となって三代藩主・高久を生んでいる。
別の史料にある「多羅尾家系図」によると、三代藩主・藤堂高久の生母である浄明院の妹・霊光院は最初、平野九兵衛に嫁したが、後に離別。姉と同じく二代藩主・高次の側室となった。
平野九兵衛はこの縁からか後、藩に召し出されて二百石を与えられ小左衛門と称した。この名跡を鷹取意朝の子である伊東又六郎祐章が継いだとある。
なお、鷹取家も同じく定府の家臣であったが二代目の鷹取以朔の時に伊賀に下っており、明治に至っているが、明治期に小野姓に改正したとのこと。
初代
伊東又六郎祐章
二代
伊東市郎兵衛祐陣
三代
伊東弥七雅忠
弐百石
四代
伊東賢蔵祐賢
五代
伊東不遂? 不明
六代
伊東弥七祐順
七代
伊東弥七祐吉
七代目の伊東祐吉は、慶応4年2月からの東征軍に弟二人・伊東武三郎祐光(後、武と改名)、伊東啓四郎祐直と従軍している。
また明治8年に至り大蔵省に出仕、鹿児島、徳島県勤務を経て辞官、同18年からは大阪府に勤務、 同25年からは市立大阪高等女学校に勤務等、活躍された方の様である。
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