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​高虎家臣 氏名 た~と 迄

【瀧野久弥】
(八右衛門)。諱不明。元、加藤嘉明臣。後、加藤家を辞したが、嘉明より奉公構いが出ていた為、仕官出来ず浪人を続け伊賀国に居住していた。慶長十九年五月、中坊飛騨守秀正の肝煎と石田清兵衛、藤堂采女の取次により召し抱えられ隠禄十口を給される。同年、大坂冬の陣に従い、翌年の夏の陣にも従軍。その後は伊賀国伊勢地村に居住し、嘉明の死後、新知百五十石を給され、上野に屋敷を与えられた。 

【武田雅楽】
諱不明。伊勢稲生城主・稲生氏の出身。稲生某入道古帆の子。奥山五郎左衛門の実兄。元、富田家臣。慶長五年、津城籠城戦に参加(2)。同十年、高虎に召し抱えられ千石を給される。大坂冬の陣には赤母衣、冬の陣に名見えず、辞去か死去か不明。

【田中重久】
(内蔵丞)。元、島津義久臣。文禄元年、朝鮮役の際、海路の案内者として秀吉より高虎に附せられたという。後、高虎に仕え、禄五百石を給される。慶長二年、朝鮮役に従軍。同五年、関ヶ原陣の際には町奉行を勤めていた為、板島に残り一揆鎮圧に努力した。後、高虎の勘気を蒙り改易。大坂冬の陣に前帰参を申し出、許されて藤堂新七郎の手に属した。帰陣後、元の如く禄を給される。夏の陣には藤堂新七郎組の騎馬頭を務め、五月六日、戦死。

【田中庄兵衛】
(号・林斎)。諱不明。慶長十三年八月、勢伊転封の際、伊賀入国の奉行を命じられる。同年九月、富田家への旧領引き渡しについて高虎より指示を与えられている(1)。同十六年、伊賀上野の町割普請を指揮する。同十八年十一月、藤堂新七郎と共に伊予板島に赴き富田信高の旧領を守る。同十九年、大坂冬の陣には伊予に留守居。元和四年、死去。

【田中平右衛門】
(木村蔵人少輔吉周)。諱不明。元、美濃国多芸郡下笠城主で信長の為に城地を退出するという。慶長元年、同族の田中林斎の取次により召し抱えられ二百石を給される。この時、田中姓に改姓。慶長の役に従う。大坂両陣は江戸留守居衆の内。寛永八年頃死去か。

【玉置長春】
(七左衛門)。諱は和高とも。父は玉置兵部太夫春家(1)。慶長四年、保田甚兵衛の肝煎により召し出され百石を給される。同年、普請に功あり、よって二百石加増され三百石。大坂両陣とも藤堂勘解由隊下に属した。陣後、報奨として金子一枚。

【玉置直長】
(太郎助)。父は玉置内蔵介。母は玉置対馬守の女(1)。長春、之久の従兄弟、直秀の甥。慶長四年、保田甚兵衛の肝煎により召し出される。慶長六年正月、高虎の前で弓技を披露し百石加増、禄百二十石、騎射長となり藤堂勘解由隊下に属す。慶長十九年、大坂両陣は勘解由組に属した。帰陣後、報奨として銀子五枚。元和五年、福島正則改易の際、蒲生家に派遣され、同年、百石加増。同十五年、荒木又右衛門、渡辺数馬護送の列に歩行弓組を率いて加わる。同十八年、旗奉行となる。直長は吉田流弓術の達人という。

【玉置直秀】
(角之助、福井介)。父は玉置(福井)対馬守、母は玉置兵部太夫の女。元、紀伊国手取城主・玉置直和の臣。天正十三年三月の秀吉の紀州侵攻の際、玉置直和は帰順の態度を取り、これを以て湯川中務少輔直春に攻められ坂瀬に於いて戦ったが敗退。この合戦で直秀の父・対馬守、兄の修理介は討死した。玉置氏の要請により秀吉の軍が来援、紀州は平定され玉置氏は平定後、紀州を領した秀長に仕えた。玉置氏は旧領を認められたものの、三分の一程に削られた為、直秀は玉置家を離れ文禄元年、保田甚兵衛の肝煎により高虎に召し出された。同年の朝鮮陣に従い、慶長の再征にも従う。帰陣後、四百石を給される。慶長五年、関ヶ原陣に従う。大坂両陣には藤堂采女隊下の組頭を務め、帰陣後、二百石加増され七百石。直秀は吉田流弓術の達人といわれる。

【多羅尾光尚】
(左兵衛、四郎左衛門)。多羅尾左京進光太の三男。多羅尾氏は近江国甲賀郡多羅尾の豪族。父の光太は初め秀吉に仕えたが、関白秀次事件に連座して改易され、後、家康に属した。光尚は慶長十五年、田中清六の肝煎により伊賀に於いて藤堂采女取次によって召し抱えられる。禄五百石、足軽大将を命じられた。同十九年、大坂冬の陣には左先手足軽大将、翌年の夏の陣には黒母衣組に属し従軍。陣後、功により二百石加増され都合七百石となる。

【長 連房】
(織部、監物)。長越前守連久(後、高連)の子。母は但馬国轟城主・垣屋宗時の女。高虎の側室・松寿院の兄、即ち二代藩主・高次の伯父に当たる。長氏は但馬国林甫城に拠った土豪。連房は同族の前田家家臣・長九郎左衛門連竜の元に身を寄せていた。慶長十一年、高虎に招かれ、高虎より千五百石、高次の局料の内から五百石を給されて高次の伝臣を命じられる。同年、高次が将軍・秀忠に拝謁の折、連房も登城に随行した。慶長十九年の大坂冬陣には江戸邸留守居、翌元和元年の大坂再陣にも同様に命じられたが、大坂陣中の安否窺いと称して江戸より戦場に至り、采女元則を頼んで高虎に参陣を請願した。しかし高虎が激怒してこれを許さなかった為、連房はそのまま戦闘に参加。陣後、禄を没収され蟄居の身となる。同二年正月二十二日、松寿院の嘆訴により復仕を許される。寛永七年十二月、高次襲封の時に三千石加増され五千石となる。

【土田権右衛門】
諱不明。元、田中吉政臣。土田氏は伊賀の土豪。元和二年、筑後柳川より故郷の伊賀国蓮池村に帰って居るところを、石田、中小路、大島らの申し出と藤堂采女の取次を以て召し抱えられ二百石を給される。寛永八年、二百石加増され伊賀の普請奉行となる。

【鶴原泰正】
(善左衛門)。元、大友吉統臣。鶴原氏は元、田口氏を称し、代々豊後大友家に仕えた。泰正は慶長二年、藤堂采女元則の取次により豫州板島に於いて召し抱えられ百五十石を給される。同五年、関ヶ原陣の際には板島に留守居。大坂両陣には藤堂新七郎組に属して従軍。元和元年八月三十日、死去。室は大友刑部の女。

【寺町惣左衛門】
諱不明。元、秀吉の馬廻組で秀吉の死後は秀頼に仕える。大坂陣に於いては中村式部少輔重氏の組に属し戦功があった。元和三年、高虎の命を受けた疋田右近によって招かれ三百五十石を給された。一説に織田長益の肝煎ともいう。小森伊豆守組に属し、伊豆守死後はその子・小森彦右衛門組に属す。茶事、連歌、書を好み、能筆でもあった為、藩の子弟の師を勤めたといわれる。

【友田吉家】
(左近右衛門、号・継林)。元、宮部長煕臣。宮部継潤に仕え、その死後は長煕に仕えた。慶長五年、関ヶ原陣後、宮部家没落により浪人となる。同年、高虎に招かれ一万石を給される。翌六年四月、加藤嘉明への備えとして塩泉城へ赴き藤堂宮内高吉に附せられる。同九年九月、隣藩・加藤家との騒動により伊予を退去し京都に蟄居。同十二年十二月、藤堂宮内高吉の帰参の節、再勤を命じられたが固辞し、京都に遊居した。

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