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​藤堂内膳家

藤堂内膳家の初代は渡辺金六宗吉です。
 宗吉は高虎の重臣として有名な渡辺勘兵衛とは全く別系で大和国出身です。父は島川専助と称しており、渡辺家の養子となったとあります。島川家は弟の宗が継ぎ同名を称しています。
 宗吉の父・専助も、次弟の専助も、そして後に解説する末弟の弥作も皆、諱を同じ「宗」としているので或いは間違いではないかとも思うのですが、記録は皆この様になっています。

 さて、初代・宗吉は、天正十年頃から高虎に仕えて武功を顕し、特に賤ヶ岳の戦いでは負傷した高虎を守って健闘、高虎が粉河城主となったときに五百石を与えられています。その後、両度の朝鮮役に従軍しましたが、慶長2年8月、南原城の戦いにおいて戦死しました。

 宗吉は子がなかったので、末弟の弥作宗が跡を継ぎました。宗も武勇の士であった模様で、慶長の役、関が原の戦いで戦功を上げ、一躍二千石取りとなります。またこの頃、掃部と改称しました。その後、高虎が手掛けた各地の普請に従い、慶長19年、大坂冬の陣には士大将として侍組を率い左先鋒の相備を務めました。翌年の夏の陣にも左先鋒の相備となり、激戦を潜り抜けて生還しています。
 寛永十年、二代藩主・高次から藤堂姓を称する様命じられ藤堂内膳と称しました。宗は正保三年に死去し、嫡子の宗が跡を継いでいます。

 三代・宗は系図を見ると二代・宗の次男で、兄に重がいます。なぜ長兄に家督継承がされなかったのか、実はこの重にちょっと興味深い話があります。
 これは本家筋の島川家の文書に記載されているのですが、実は重は高虎の落胤であるというものです。重の母は高虎の侍女・澤野氏で、懐胎の後、養父の渡辺掃部に預けられ、重は誕生後、渡辺姓を称して別家を立てたとあります。これは荒唐無稽な話ではなく、同様の例に石田三郎左衛門武清がいますが、そういう視点で観ると重が宗の長男でありながら別禄を賜って別家し、高虎の家臣筆頭ともいうべき藤堂新七郎良勝の娘を娶っていることが頷けます。

 藤堂内膳家は、三代・宗の後、四代・宗武のとき藤堂姓を返上して、渡辺姓に戻っています。子孫は渡辺金六又は内膳と称し、幕末まで高禄の上級家臣として続きました。

 島川専助 
宗─────────┐
┌─────────┘
│ 初代 渡辺金六
├宗 

│ 島川弥助、専助(藩士・島川専助家初代)
├宗 

│ 2代 弥作、掃部、藤堂内膳、致仕後・定閑 二千石
└宗 ────────────────────────┐
                           │
┌──────────────────────────┘

│ 渡辺将監      渡辺伊左衛門 千石
├重 ────────示

│ 3代 渡辺右衛門、掃部、藤堂内膳、致仕後・真休
├宗 ────────────────────────┐
│                          │
│ 長松、岡右衛門 仕石州濱田            │
└某                         │
                           │
┌──────────────────────────┘
│ 4代 渡辺金六 渡辺に復姓 千五百石
├宗武────────────────────────┐
│                          │
│ 諱は清とも。七郎右衛門 分知五百石 久居藩士   │
└宗次                        │
                           │
┌──────────────────────────┘
│ 5代 渡辺金六 千五百石
├弘  

│ 源二郎
└深      

 

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