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梅原勝右衛門家

梅原勝右衛門家の初代は武政です。
「一代之武功不知其数」と言われた勇士で生涯を通じて幾度も戦場に身を置いた古強者でした。

 梅原氏は系図によると元々伊藤姓だった様ですが、いつの頃からか梅原姓を称する様になりました。近江国坂田郡に梅原という地名があった様ですから、藤堂家と同じく近江の土豪だったのでしょう。秀吉の馬廻りや蒲生家の分限帳に同姓の士が見られますので同族かも知れません。高虎の母方の祖母・菊池氏が夫の死後、梅原武藤と再婚して生まれたのが武政ですので、高虎にとっては母方の叔父ということになります。
 武政は長じて後、蒲生郡の池田秀雄に仕えました。元亀4年7月、宇治川の戦闘に徒士として初陣とありますから、秀雄麾下の軽輩として槇島城の戦いに従軍したのでしょう。この時、武政は真っ先に渡河して戦い、秀雄にその存在を認められました。主君の秀雄は当時、織田家の武将でしたから、以後その家臣として各地を転戦し、立身していきます。秀雄が慶長二年に死去した後は、嫡子・秀氏に仕えました。おそらく両度の朝鮮役にも従ったものと思われます。
 慶長5年、関が原戦において伊予国大洲城主であった池田秀氏は西軍に加担し改易となり、武政も浪人となります。当時、武政は秀氏から宇摩郡川上鷺城を預かっていたとありますが、この城が何処にあったのか不明では鷺森城のことでしょうか。

 翌6年、藤堂新七郎良勝が武政を招聘に訪れます。良勝の父・良政は武政の異父兄ですので、武政は高虎だけでなく良勝にとっても叔父になります。取り敢えず知行は千石ということで話は纏まり、武政は一家を引き連れて今治城下に転居します。武政は鉄砲頭に任命され、鉄砲足軽組を預かりました。慶長13年、藤堂家は伊勢・伊賀に転封となり、この時武政は高虎より名張城の城代を命じられます。武政の他、今治領で民政を担っていた奉行数人が名張城に赴任しました。
 さて『名張の歴史』(名張地方史研究会 編)によると慶長15年、武政は執政の廉により名張城代職を罷免されて藤堂出雲高清に交代させられた上、禄も一万石から三千石、さらに千石に減らされたとありますが、これは誤りだと思われます。確かに年貢の取り立てについて高虎から叱責の書状を受け取っていますが、この時期に武政が一万石もの大禄を与えられていたとは思えません。仮に「一万石」が正しいとしても、それは預かりの侍組共で一万石格だったものと思われます。梅原氏系図にも藩に提出された由緒書にも罷免されたとの記載はなく、逆に慶長19年まで名張城に在住していたことが書かれています。
 また後任の藤堂出雲高清は、慶長15年当時20歳代半ばで、大坂城を取り巻く状況が悪化する中、最前線の城代職を務めるには若過ぎます。従って武政は罷免されたのではなく、江戸城普請等を勤める中で多忙となったため、慶長末になって城代職を高清に引渡したものと思われます。慶長19年、大坂城への出兵が決定したため、武政は高虎の命で江戸から名張城に戻り、そのまま士大将に任命された高清の軍勢に組み込まれて出動しました。
 翌年の夏の陣には、藤堂出雲高清が名張城の留守居となったため、武政は改めて右先鋒の鉄砲頭を命じられ、息子3人と共に従軍します。5月6日の戦闘で武政の一隊は目覚しい働きをしますが、激戦の中で次男の武房が戦死しました。

 大坂城落城後、小屋掛した中で武政が休息を取っていると付近で騒ぎが起こります。細川忠興の家臣と、藤堂高吉の家臣が城内から略奪した戦利品の奪い合いを始め、これが拡大。双方の軍勢が加わり本格的な戦闘になりつつありました。初め武政はこれを無視していましたが、自らの居る小屋に銃弾がガンガン当たり始めたため、頭にきたのでしょう。自分の部下を呼び集めて並べると細川家の軍勢に向かって一斉に発砲、さらに只中に割って入り追撃に掛かります。この頃には漸く忠興、高虎とも事情を知って驚き、「早々に戦闘を止めよ」との命令を下したため、騒ぎは沈静化しましたが、この騒動の流れ弾で三男の武辰を失ってしまいました。武政の武功と心情、それに藤堂家としての意地を示したという点を慮ってか、武辰も大坂の陣での戦死者として扱う様高虎からの指示があったといいます。

 上野城配置の重臣と家臣が多数が戦死した上、それまで二万石という大禄を与えられて伊賀上野城を預かっていた渡辺勘兵衛が辞去を届け出たため、伊賀国の軍制と統治に大きな穴が開いてしまいました。そこで高虎は武政と藤堂式部家信の下に生き残りの士を集め侍組を再編することにします。武政は大坂両陣の功により千五百石加増され、高一万七千石の組士六十一騎、鉄砲足軽六十人を預かり二万石格の士大将に任じ、伊賀国の仕置を委任されました。但し、家信は11月に帰国するまで有馬温泉で戦傷治癒に努めており、この時は不在だったため実質、武政と民政を担当する奉行の手で統治がなされていました。
 8月、武政は高虎から特に大坂陣の戦功吟味を委託され、津城下に赴任。両陣参加の諸士から提出された戦功書上と証人を吟味し逐一チェックするという大仕事に取り組みます。

 元和6年、伊賀の国政を蟄居が解けた藤堂出雲高清に引渡し、また老齢を理由に隠居を申し出ますが、高虎は「軍役を軽減するし以後の普請等は長男・武次が勤めてよいから、引き続き奉公する様に」とこれを容れませんでした。武政は寛永16年、当時としては長命の81歳で死去しました。


 長男の頼母武次は、高虎から資質を認められて早くから別禄を与えられ別家を起こし、父と共に戦場に出、父の老後は代わって普請役を務めるなど活躍していましたが、武政に先立つこと9日前に死去しました。武政の遺禄は、武明と武次の子・武英に分与されています。
 梅原勝右衛門家は五代・武玉の時に絶家となりましたが、頼母武次の家系は明治まで続き幕末には勝右衛門を称しています。

 

 

梅原右近将監 室は菊地肥後守親政の娘。
武藤────────┐
┌─────────┘

│ 初代 岩夜叉、勝右衛門。室は奥田三河守忠高の娘。
└武政 ───────────────────────────┐
                               │
┌──────────────────────────────┘

├女子 細野右近藤嘉室

│ 頼母 梅原頼母家初代。室は柴田源左衛門の娘 
├武次 

├武辰 元和元年五月八日戦死

├武房 元和元年五月六日戦死

│ 2代 勘左衛門、勝右衛門
├武明────────────────────────────┐
│                              │
└女子 玉置佐右衛門直富室                  │
┌──────────────────────────────┘
│  
├女子 安藤源大輔室、後、佐藤八郎左衛門吉重室

├女子 藤堂新七郎良精養子


│ 3代 貞右衛門、勝右衛門
├武成 ────────────────────────────┐
│                               │
│ 儀右衛門                          │
├武旨                             │
│                               │
├英訓 藤堂新七郎良精養子となり興福寺檜皮院住持        │
│                               │
├女子 石田清兵衛武真室                    │
│                               │
│ 中尾小十郎。中尾吉左衛門養子                │
└昌方                             │
                                │
┌───────────────────────────────┘
│ 4代 勝右衛門
├武厚

├女子 梅原新兵衛武済(頼母家三代)室

├観聖 江州飯道寺岩本院弟子
│  
├重政 十楚勘右衛門。南都与力・十楚又四郎養子

└女子 稲垣六郎左衛門重矩室

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