藤堂高虎
藤堂高虎とその家臣
藤堂新七郎家
高虎の従兄弟・良勝を初代とする。良勝は幼少から高虎に随身し、高虎の関わった数々の戦に従軍し功名を挙げたが、謙虚な人柄であったらしく高禄を望まなかった。高虎が最も信頼した家臣である。同家は松尾芭蕉が仕えていたことでも知られる。
藤堂玄蕃家
高虎の従兄弟・良政を初代とする。良政は高虎とは別に信長、丹羽長秀、秀吉に歴仕した後、秀吉の命によりその甥・秀次の属臣となり、高一万石の与力を預かる重臣となったが、秀次事件に連座して高虎に庇護され家臣となった。
藤堂仁右衛門家
高虎の甥・高刑を初代とする。高刑は朝鮮再役に十六歳で従い、関ケ原戦において大谷刑部少輔吉隆の臣・湯浅五助隆貞を討ち取って名を上げた。五助との約束を守り、家康から大谷吉隆の首の行方を尋ねられても頑として答えなかった逸話が有名。
藤堂宮内家
丹羽長秀の子で豊臣秀長の養子となり、後に高虎の養子となった高吉を初代とする。高吉は元々、高虎の後継者となる人物であり、義父に従って朝鮮役や関ケ原戦で武功を挙げたが、高虎に実子・高次が出来たため、家臣となった。
藤堂出雲家
高虎の異母弟・高清を初代とする。高虎とは年の離れた弟であったため創業の戦にはほとんど関与していない。最も近い近親者ということで後に禄七千石、伊賀上野城代となった。高清の曾孫に当たる高治は津藩6代藩主となった。
藤堂内匠家
高虎の異母弟であり、出雲高清の弟である正高を初代とする。人質として長く江戸で暮らし、徳川秀忠の側近くに仕えて、家康から特に下総国内で三千石を与えられた。後に高虎の元に戻り、その家臣となる。
藤堂太郎左衛門家
高虎の父・虎高の従兄弟である重政を初代とする。藤堂家における初期の家老職を担った。後に重政は高虎と仲違いして禄を返上してしまったため、遺児四人は一時、逼塞を余儀なくされたが後に復仕。
藤堂作兵衛家
高虎の従兄弟・忠光を初代とする。本姓・箕浦。朝鮮役や関ケ原戦で武功を挙げ、高一万石の士隊三十騎を預けられ士大将となる。初期の功臣で高虎と近しい間柄であったため、子孫に藩から別禄を与えられて家を興した者が多い。
藤堂内膳家
本姓・渡辺。朝鮮役や関ケ原戦で武功を挙げ、禄二千石を与えられ士大将となった。大坂両役には預りの侍組を率いて先鋒を務め、後に藤堂姓を与えられた。
藤堂長兵衛家
本姓・渡辺。高虎に二万石という高禄を以て召し抱えられた渡辺勘兵衛了(さとる)の子・守(まもる)を初代とする。守は高虎の妹婿であったため、了が高虎と袂を分かった後も藤堂家に留まった。
矢倉大右衛門家
本姓・村山。近江出身で但馬平定の際に高虎に仕えた秀親を初代とする。慶長十三年の勢伊転封の際には伊賀入国の総責任者となり、後の伊賀上野城建設においては普請奉行を務めた。
梅原勝右衛門家
「一代之武功不知其数」と言われた梅原勝右衛門武政を初代とする。武政は、高虎の叔父に当たり、池田秀雄・秀氏の二代に亘って仕え数々の武功を顕した。慶長五年、池田家改易により高虎に仕える。
佐伯権之助家
元、豊後国栂牟礼城主であった惟定を初代とする。大友家に仕えて、島津家の豊後侵攻の際には自城を固守し、秀吉から称賛された。大友家の改易により浪人となり高虎に招聘され家臣となる。
桑名弥次兵衛家
元、土佐国中村城監。長宗我部元親の驍将であった一孝を初代とする。一孝は、長宗我部元親に仕えて四国平定戦で数々の武功を挙げ、「長曾我部家ニ如何様之武篇者出来候共先手ハ弥次兵衛」と言わしめた。主家の改易後、高虎に仕える。