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細川家 新陰流師範 田中家と藤堂家臣 田中家

 肥後熊本藩三代藩主・細川綱利の新陰流兵法指南役であった田中甚兵衛明親と藤堂家の関係が以前から

気になっていたので整理してみることにした。

 墓碑文集成である「事実文編」中、「大夫田中君墓碑銘」に、田中甚兵衛(初め隼之助)保親の

事績が掛かれている。甚だ読み難いが転写は以下のとおりである。

 

「曽祖君木村蔵人方列國闘争際拠濃州下笠城當是時織田氏勃奥尾併呑隣国孤城不可以敵又不肯降則避地

 他適依存藤堂氏臣田中林斎食禄六千石 妻曽祖君以女 於是改姓名田中平右衛門 文禄之役与林斎従軍

 渡朝鮮一日出奪韓船虜二人推曽祖君於海浮遊斬二人取其船其快刀今宝蔵之云 林斎無嗣曽祖君嫡荘兵衛

 以女孫継林斎家 藤堂之制禄遁代禄減半有功則荘兵衛因食禄三千石亦無子藤堂氏復以曽祖君次子半兵衛

 為林斎嗣食禄再減為千五百石 是實大夫君祖父也 祖君名継林斎於禄視荘兵衛於義甚或不可以仕藤堂氏

 留之三祖君皆不可遂去國 藤堂氏怒索急乃没迹匿身乎摂者廿一年 藤堂氏新立其令稠緩 於是■妻子適

 和依柳生候以姻族故柳生候善遇 祖君時老不求仕 柳生氏者以撃剣為師於幕府者也 又衆候之所専宗而

 吾妙解公賓以英特見称者是也 父翁甚兵衛諱明親従祖君在于柳生氏甫九歳受法于宗矩候 継師三厳候・・・

 常出入於諸侯門吾妙應公(四代綱利) 亦学柳法翁因来往我者九年乃懇招父翁于柳生氏 翁遂我采地五百石」

 

まず代々の氏名を整理すると以下の様になる。

曽祖父 田中平右衛門

祖父      田中半兵衛

父       田中甚兵衛明親

明親子   田中甚兵衛保親

 

 墓碑の記載中、明らかに誤りと思われるのが、田中林斎の禄高である。

田中林斎は、高虎に仕えて民政に能力を発揮した草創期の功臣で、禄千石、元和四年に死去した。

「此年、田中林斎病死す。嫡子左衛門佐に父禄千石の内五百石を賜う。私に曰、林斎は慶長以前より

公に奉仕し庚子の役にも功を顕し後、奉行となり千石を賜う。初め庄兵衛と号す。」とあって、

寛永八年の分限帳には伊賀附藤堂式部組として

「五百石 二代目  田中左衛門佐  父林斎」とある。

 

 従って六千石を与えられたなどという肥後田中家の墓碑の記載は全く誤りであるが、禄高が半減

したのは事実である。また「高次公御代絶家之大概」に田中左衛門佐とあるから、田中林斎の直系は

二代藩主・高次の在任時に絶えていて、墓碑にある様に藤堂家を立ち退いたという記述が正しいの

かもしれない。

 一方、田中平右衛門は慶安四年三代藩主・高久襲封時の分限帳に伊賀附 藤堂長門組の士として

「二百石 田中平右衛門」とあって屋敷の場所まで記載があるから、藩を去っていない。

 墓碑から読み取る系統は以下の様になる。

 

田中荘兵衛(林斎)──┬─荘兵衛(左衛門佐?)

           │

           └─女子 田中平右衛門初代室

曽祖父

田中平右衛門─────┬─荘兵衛 林斎家を継ぐ

室は田中林斎の娘   │

           │ 祖父           父

           └─半兵衛 荘兵衛を継ぐ───甚兵衛明親

 

しかしながら田中平右衛門家が絶えた経緯について藤堂家の記録には以下の様に書いてある。

 (原文訳)

1.寛文元年四月二十一日、藩主・高次に藤堂監物、藤堂兵左衛門、井関彦兵衛、内堀弥五左衛門

の連名で下記の内容が、書面で提出された。これは城代・藤堂采女と伊賀奉行から報告されたもの

である。

・二百石 田中文左衛門が死去したが、子息がないこと。

・文左衛門の祖父・田中平左衛門は六十二年以前に召し出され、親・平左衛門も昨年死去して

 いること

・文左衛門は、弓術に秀でており、部屋住みの内から和泉守様(後の三代藩主・高久)に奉公

 していた者であること

・親・平左衛門の死去後は、家禄二百石をそのまま相続、和泉守様に奉公していたが、此度

 死去したこと

・母と妹がいること

2.文左衛門に子はないが、弟がおり、年齢は二十五歳である。親の平左衛門は柳生飛騨守様の

誼があったため、この弟を幼少より飛騨守様へ預け置いて兵法の稽古をさせていた。

此度、柳生飛騨守様より和泉守様へは、以下のお申し出があった。

「文左衛門が死去して母と妹も行き場がないと聞いており、不憫に思っている。現在、文左衛門

の弟・平左衛門を預かり兵法を教授しているが、同人は今では打太刀(師匠役)を務めるまでに

なった。兄の跡目をこの弟に仰せ付けられれば幸いである。」

申し出を受けた和泉守様としては、文左衛門は良く奉公をしていたし、弟が兵法に秀でており

打太刀も務める程ならば貴重な人材であろう。跡目を許してもよいのではないかとの仰せであった。

 

この書面を受けて藩主・高次は、藤堂数馬を呼び出し、以下の返答を与えた。

「文左衛門の跡目を他領に居る親族を以て立てるということは格別の取り扱いであり、仕置に

沿わない。また今回の扱いが家中の前例となるのも良くないことだ。和泉へはこの旨、良く

伝えて貰いたい」

 

 上記の経緯から、田中文左衛門の跡目は、柳生家で兵法を学んでいた弟には与えられなかった

ものと見られる。この記事からは以下の様になる。

 

 田中平左衛門     田中平左衛門     田中文左衛門 

某─────────某──────────┬某

            万治三年死去   │ 寛文元年死去

                     │

                     │ 田中平左衛門

                     └某

 

 平左衛門は平右衛門の誤りと思われるが、田中文左衛門が嗣子なく死去したのが、寛文元年。

一方、細川家の「先祖附」によれば、田中甚兵衛明親は「幼少より柳生家家ニ而兵法執行」

「寛文八年十月高祖父甚兵衛御家に召し出され」とある。

 従って、上記の文左衛門の弟が甚兵衛明親と思われ、細川家に仕官した経緯は、墓碑や

先祖附等の細川家側の記録とは随分異なる。大体、父の平左衛門は藤堂家を立ち退いていない。

 双方の記事に矛盾がない様にすると以下の様な系統になるが、藤堂家側に新たな記録が

出てこないと分からないだろう。

 

 曽祖父

田中平右衛門─────┬─荘兵衛 林斎家を継ぐ

 室は田中林斎の娘  │

           │      藤堂家退去

           ├─半兵衛 荘兵衛を継ぐ─┬──文左衛門

           │            │

           │            └──甚兵衛明親

           │

           │ 二代目            養子 実は半兵衛子

           └平右衛門───────────文左衛門

 

 

 藤堂家臣・田中平右衛門家の子孫が、肥後に下って新陰流兵法師範となったことだけは事実である。

この時、二代藩主・高次の判断としては国法の遵守を取って有為の人材を召し抱えなかった訳であるが、

結局藤堂家は、後年厳しい交渉を経て、柳生一族の津田武左衛門直勝を新陰流兵法指南役として召し

抱えた訳であるから、判断の是非は難しい処である。

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