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藤堂藩士出身の医師達②

2.馬場道朔

 馬場道朔廣駿の次子。諱は朝駿。幼字・玄脩。号・翠園。六世前の馬場道朔政弥は長崎の人で、親族の蘭学医・栗崎道有(後に江戸幕府の官医)から、外科医術を学んだ。政弥は宝永元年、藤堂家に出仕、以後代々医師として藩に仕えた。

 朝駿は、天保九年四月、津城下の弓之町にて出生。長じて藩校において斉藤誠軒、宮崎青谷に学んだ。安政二年、十八歳で江戸に遊学し、加賀藩医・大高元俊について内外科医術を学ぶ。同四年三月、藩命で京都に遊学し、高階桂園の門下となり、外科術を履修。また賀川蘭臺に従って婦人科・産科を学んだ。同六年十二月、帰国。万延元年九月、藩医となる。

 元治元年、嗣子・藤堂高潔に従って京都及び南勢に赴き、山崎平野その他各地に出張。明治四年、藩の育成寮(藩校内医学教授所)訓導補となり、閉校に伴い解職。同十六年、和漢医学講習所(東京温知社)の事務委員となる。同年、家督を長子・亀久生に譲り、隠居。

 その後も産婦人科及び小児科の医師として医療に従事し、名医として名高かった。

 

 

 馬場亀久生

 道朔の長男。諱は駿。字は千里、また城南、海城と号した。文久元年七月生まれ。十歳の時、藩校養正寮に入学、漢籍を永島敬斎、字を井野勿歳に学んだ。また育成寮において医学を修め成績優等者として、藩から扇子を下賜された。文学を好み、藩儒・荒木西嵓、猪飼箕山に師事し、後に督学参謀の早崎巌川について漢学を学んだ。

 長じて父に従い産科を学び、明治十一年二月、三重県医学校に入学、同十六年十一月、県庁における内科試験を経て同十七年三月、内務省より開業免状を受ける。同年十一月、地方徴兵医員を命じられ、県内各郡に出張。同十九年七月、検疫医、二十年十二月、山田梅毒病院医員となる。

 翌年五月、辞職し、東京に遊学し。産科婦人科医学士・櫻井郁二郎氏について産科婦人科手術を学び、実地演習を経て、卒業証書を受ける。更に山龍堂病院に入り、樫村清徳氏他について内外科治療を学ぶ。

 同二十三年五月、三重県に戻り、自宅で開業。藤堂家より教育沿革史の史料編纂を委託され、早崎巌川とこれを進めていたが、巌川の死後は独力でこれを成し遂げた。

 昭和十五年二月、死去。

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