藤堂高虎
藤堂高虎とその家臣
矢倉大右衛門家
矢倉大右衛門家の初代は秀親です。
秀親は高虎がまだ羽柴秀長の家臣で物頭だった頃に仕えた古参家臣です。「近江国小野庄住人」とありますので高虎が故郷に居た頃からの知人だったのかも知れません。高虎の家臣になる前の矢倉氏については良く分かっていませんが、元は村山姓を称し、宮部次兵衛(後の関白秀次)、前野長康 、木下助兵衛らに仕えたとされています。高虎に仕えて戦功を重ね、最終的には二千石を与えられて重臣に列しています。現代に残る宇和島城の「代右衛門丸」は、秀親が居住していたことに由来するといいます。
慶長13年の勢伊転封に際して伊賀附となり、入国作業の総奉行を担当、同16年からは上野城二、三ノ丸普請の奉行を務めるなど、伊賀国における初期統治に尽力しましたが、同年死去しました。
同年、嫡子・与五郎秀政が跡を継ぎましたが、若年であるという理由から士大将職は免じられ、遺禄二千石の内、千五百石を与えられました。慶長19年、大坂冬の陣に従軍しましたが、まもなく病を得て翌年春、若くして死去しています。秀政には子がいなかったため、その弟が家督を継承し、大坂夏の陣に従軍。寛永八年の分限帳には供衆千五百石 矢倉大右衛門 初与五郎とあります。三代目の大右衛門は正保元年に死去し、その子が四代目を継ぎましたが、何か事件があったらしく改易となり、その子の源左衛門が五十人扶持を賜り家督を継いでいますが、源左衛門も元禄四年死去したため、無嗣絶家となりました。
寛保二年頃に作成されたと思われる分限帳には矢倉姓の藩士がいないことから、この経緯を裏付けています。
村山与助、初代 矢倉大右衛門
秀親────────┐
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├女子 小野兵右衛門室
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├女子 藤堂玄蕃三代良重妻、後に四代良次妻
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│ 2代 与五郎
├秀政
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├女子 藤堂大九郎高秀室
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│ 3代 与五郎、大右衛門
└某─────────────────────────┐
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│ 八郎兵衛 室は藤堂玄蕃良次の娘
├某
│ 4代 大右衛門 室は藤堂宗兵衛良政の娘
└政備────────────────────────┐
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│ 5代 源左衛門
└某