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​高虎家臣 氏名 や~よ 迄

【矢倉秀親】
(村山與助、右近允、矢倉大右衛門)。初め宮部次兵衛吉継、次いで前野将右衛門長誉、また木下助兵衛秀次に仕えた。天正十一年、但馬に於いて高虎に仕える。慶長五年、関ヶ原陣には留守居を命じられ宇和に起こった一揆掃討に尽力した。同年九月、廣田城主・芝一覚を誘殺する。同十三年、伊賀入国の総奉行を命じられ、侍組、鉄砲足軽を預かる。同十六年春、伊賀上野城二、三ノ丸普請の奉行を務める。

【保田宗勝】
(治右衛門、号・閑斎)。初め泰勝。保田甚兵衛則宗の弟、藤堂采女元則の兄。慶長八年、高虎に招かれ、五百石を給される。同十八年、津の奉行となり元和九年までこれを勤めた。大坂両陣には奉行職にある為、津に留守居した。寛永五年、病身により致仕を願い、剃髪して閑斎と号す。

【安並有次】
(久左衛門)。安並玄蕃(刑部)の子。元、長宗我部盛親臣。安並氏は元々土佐国一条家の家老で、主家の滅亡後、長宗我部家に臣従し、その重臣となった。慶長五年、召し抱えられ三百石を給される。大坂両陣には新七郎組。後、報奨として金子一枚。元和七年、病死。

【八十島道除】
(号・道除)。諱不明。元、石田三成臣。慶長五年、召し抱えられ五百石を給される。後、五百石加増され千石となる。書に堪能で高虎の祐筆となる。老年に及んでは昼夜高虎に咫尺して一生を終わるという。寛永元年、死去。

【柳田忠恒】
(半右衛門、日幡伊右衛門、猪右衛門、号・伊入)。忠光の次男。初め徳永左馬介に仕え、大坂両陣に参加。元和五年、幕府の士・斎藤与三右衛門の肝煎と藤堂主殿の取次により召し抱えられ二百石を給される。一説に元和六年、青山伯耆守の肝煎によるともいう。後、本姓に復し日幡伊右衛門と称し藤堂兵左衛門組に属す。慶安三年、郡奉行となる。明暦三年、伊勢の郡奉行となり百石加増。

【柳田忠光】
(左衛門次郎、八郎右衛門、号・宗悦)。本姓・日幡。故有って柳田を称す。元、備中国松下城主という。元、宇喜多秀家臣。宇喜多直家、秀家に歴仕。慶長五年、関ヶ原陣後、浪人となる。同十年、召し抱えられ合力米を給され城番となる。大坂冬の陣には津に留守居。

【山岡直則】
(忠兵衛、長門)。父は山岡右京景晴。母は山岡美作守景冬の女。後の久居藩筆頭家老・藤堂源助直広の父にあたる。慶長十三年十月下旬、伊勢総奉行を命じられる。室は高虎の妹、直則の死後、渡辺長兵衛守に再嫁した。

【山岡景重】
(覚兵衛、五郎左衛門)。父は山岡彦右衛門景政、母は山岡美作守景隆の女。元和元年、朽木元綱、山岡図書両人の肝煎と藤堂采女元則の取次ぎにより召し出されて五百石を与えられ母衣組に属す。寛永十一年、藩を辞去し、翌十二年七月八日、江州甲賀郡寺庄に於て死去。

【山田正吉】
(三右衛門)。慶長五年、桑山重晴の肝煎と藤堂内膳の取次により召し抱えられ百五十石を給された。同十九年、大坂冬の陣に従い、翌元和元年には江戸に残り作事を勤める。その後、百石加増され二百五十石となる。

【山田善兵衛】
諱不明。慶長元年、伊予に於いて藤堂新七郎の取次により召し抱えられ二百五十石を給される。朝鮮陣に従う。同五年九月、関ヶ原陣には留守居となり、一揆制圧に尽力、負傷した。大坂両陣には渡辺掃部組。陣後、報奨として金子一枚。元和九年五月、死去。

【山田資治】
(八右衛門)。慶長十三年、旗本・青山図書助の肝煎と藤堂采女の取次により召し抱えられ三百石を給された。大坂両陣には桑名弥次兵衛隊下に属す。元和元年、夏の陣に於いて戦死。

【山中為次】
(兵助)。慶長六年、予州に於いて伯父・山中六兵衛の肝煎により召し抱えられ二百石を給される。同十三年、勢伊改封の後、藤堂采女組となる。大坂両陣にも藤堂采女隊下に属し従軍(一説に藤堂仁右衛門組)。元和五年、越前騒動の際、幟奉行を命じられる。

【矢守市内】
諱不明。天正九年、召し出される。慶長五年、関ヶ原陣に従い、戦功により二百石加増され五百石、鉄砲足軽二十五人を預かる。慶長十九年頃死去か。

【湯浅直治】
(右近)。元、豊臣秀頼臣。諱は正寿とも。父は湯浅右近将監直勝。母は織田有楽斎長益の女。豊臣家では禄三千石、二千人の将であったという。大坂両陣には城方として奮戦。元和三年、高虎に招かれ三千石を給され、高七千石の侍組三十騎を預かる。同六年、大坂城再建普請に従う。

【横浜正幸】
(内記)。横浜民部少輔正行の子。横浜一庵法印の甥。父の正行は豊臣秀長・秀保に仕え、その死後は秀吉に仕えたが、慶長五年、関ヶ原陣において西軍に属した為、戦後所領を没収された。正幸は慶長十三年、縁者の小堀遠江守政一の肝煎により高虎に召し抱えられ五百石を給された。後、二百石加増され七百石。元和元年、大坂両陣に従軍。寛永六年、大坂屋敷の留守居役となる。同八年春、津附を命ぜられ母衣組となる。

【横田喜左衛門】
(喜兵衛)。諱不明。甲州武田家臣・跡部右衛門重政の子。初め跡部姓を称し後、横田姓に改む。慶長十五年、松平大隅守の肝煎により召し抱えられ三百石を給される。元和元年、大坂夏の陣には須知主水隊下に属す。同五年、死去。

【横田長元】
(藤右衛門)。天正十七年、高虎に召し出される。慶長五年六月、関ヶ原陣の際には大坂中島邸に残る。十一月、二割増しの加増を与えられたが、禄は不明。同十八年十一月、富田信高の旧領を預かる藤堂新七郎と共に板島に赴く。大坂両陣には津町奉行を勤めていた為、出陣せず。その後、江戸の松寿院附となり留守居役を勤める。

【吉武由久】
(次郎右衛門)。元、織田七兵衛臣。元和四年、朽木元綱の肝煎により高虎に召し抱えられ、二百石を給される。寛永十二年、大小姓となる。翌十三年、百石加増され三百石。同十四年、歩行頭となる。同十六年五月、消失した江戸・東叡山神廟の瑞離回廊再建を指揮する。同年八月、江戸城石垣普請の際の普請場受取りを命じられる。同十七年、百石加増され都合五百石となる。同十八年、津の普請奉行となる。

【吉田長次】
(貞右衛門)。文禄四年、召し抱えられ二百石を給された。大坂夏の陣には組外馬上士となる。寛永五年、南禅寺山門造営の総奉行を勤める。後、京都屋敷の留守居役となる。福岡藩黒田家重臣・吉田長利の甥という。

【吉田三郎兵衛】
諱不明。元、長宗我部盛親臣。大坂夏の陣の折、藤堂式部に討ち取られた吉田内匠の子。寛永三年、石田清兵衛の取次により召し抱えられ百五十石を給されて藤堂式部組に属す。正保元年正月、藩を辞した。

【吉田元直】
(六蔵、六左衛門、号・禅洞)。諱は元尚、元猶とも。吉田流弓術雪荷派の祖・吉田六左衛門重勝(雪荷)の子で同流唯授一人を相伝。天正十三年頃、羽柴秀長に仕え、秀長の死後、京に在住。慶長六年、元直が浪人している事を聞き及んだ高虎に招かれ、六百石を給された。以来、吉田家は廃藩まで藤堂家の弓術師範となる。慶長十九年、大坂冬の陣に従軍。元和元年、大坂夏の陣には当初、津の留守居を命じられたが、後に召により戦場に至り、藤堂勘解由隊下に入る。陣後、報奨として銀子一枚。元和九年八月、大坂城再建の折、塀の矢狭間の切り開きを指導する。

【米村一長】
(勘左衛門)。米村流砲術の祖。元、増田長盛臣。慶長五年、関ヶ原陣により主家は没落。翌六年、藤堂内膳の取次により召し抱えられて七百石を給され足軽大将を命じられると共に鉄砲足軽十人を預かる。大坂冬の陣に従軍。翌夏の陣には津に留守居。元和九年八月、大坂城再建の折、吉田六左衛門と共に塀の狭間の切り開きを指導する。

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