藤堂高虎
藤堂高虎とその家臣
佐伯権之助家
佐伯権之助家の初代は惟定です。
同家は江戸時代を通して男子に恵まれずその度に断絶の危機に直面しますが、高虎に仕えて度々武功を挙げた家柄であること、近親者に藤堂姓の高禄家臣が多いこと、そして豊後国以来の古い武門の家柄であることから、その都度養子が入り家格は低下したものの廃藩まで存続しています。
佐伯氏は九州に多い大神姓の国人ですが、この一族は皆その家に祖母嶽大明神(蛇神)の末裔という伝説を伝えており、佐伯権之助家も怪異の逸話が残る、藩内でも異色の家臣でした。
一例として「津市史」に以下のように書かれています。
「伊勢津の岩田字西裏に祖母嶽明神を祭った俗にいう佐伯の宮と称した神社があった。境内は八十六坪程で老樹が生い茂り、みだりに樹木を折り取ると神罰があると言い伝えられて恐れられた。佐伯権佐がここに来住して来た時に、豊後直入郡の祖母嶽大明神を移し祭ったので、佐伯の祖先は蛇であるという怪異を伝えた。
ある時藩主が丸ノ内の佐伯の宅に臨んで、祖先代々の秘箱を開こうとしたら、にわかに一天がかき曇り恐ろしい空模様となってきたので、さすがの藩主も驚いて中止したということである。佐伯家は桑名藩にもあるが、同じようにその祖神である姥嶽明神の神霊について、これと良く似た伝説がある。」
また1941年発行の「安濃津郷土史会々誌」には
「毎年十一月二十四日が佐伯祖神の例祭日で、佐伯主人は其の前一週間厳重に齋戒して、穢れを除き、深夜丑時(午前二時)に寳庫を開いて尊拝し、それが終わると直ちに佐伯町なる御宮に参拝する。これには定まった式禮があって、形の如く執行せられ、それが済んで主人が帰館すると共に門を開くのが、定例となっていた。この七日の潔齋は餘程嚴に行うたもので、その間は御殿への出仕もせず、又、物頭の勤役も免除せられたと、洞津遺聞にも記してあるが、佐伯の神寳となると、それ程も藩の公認する神秘的な存在だったのである」
初代・惟定は豊後国栂牟礼城の最後の城主でもあります。佐伯氏は代々、豊後国を治めた大友氏に仕えましたが、大友家下向より前から豊後国に勢力を扶植していたため、家臣とはいえ独立心が強く、大友家からは常に猜疑の目で見られる存在でした。
惟定の四代前の当主・惟治は謀反の嫌疑をかけられて栂牟礼城を攻められた上、偽りの赦免に誘われて城外へ退去した後に討たれています。
また惟定の祖父・惟教は、大友家の「二階崩れの変」勃発の際、いち早く大友義鎮を支持してその家督継承に貢献、家督相続式では家臣総代として主従固めの盃を交わし、天文19年8月の肥後・菊池義武征伐に先鋒として出陣するなど戦功を挙げましたが、やはり謀反の疑いをかけられて伊予国へ亡命生活13年に及びました。
天正6年(1578年)、大友家と島津家は九州の覇権を争って日向国高城川原(宮崎県木城町)で激突、この戦いで祖父・惟教、父・惟真が戦死したため、惟定はその後を継ぐ形で家督を継承します。この戦いで祖父と父、叔父を一度に亡くしただけでなく、家臣も多数戦死したため若い城主としては相当厳しい境遇でした。
天正14年(1586年)島津義久による豊後国侵攻が開始されると、弱体化した大友家を見限って大友家臣達は次々に島津方に寝返りましたが、惟定は島津家久から送られた誘降の使者を斬って抗戦の意思を明らかにします。
大友家譜代の家臣が次々に敵方に回り、逆に常に疑いの目を向けてきた佐伯氏が、落日の大友家に忠誠を尽くすとは、周囲からすると意外だったかも知れません。同年10月、来襲した島津勢を堅田合戦で撃退、翌15年2月、朝日嶽城を奪還、同年3月、退却する島津家久の軍勢を退路上の梓峠にて待ち伏せし追撃するなど孤軍奮闘し、その徹底抗戦振りは上聞に達し豊臣秀吉から感状を与えられています。
天正15年(1587年)1月、豊臣秀吉は大友宗麟の嘆願を受け入れ、自身、九州征伐に乗り出しました。その軍勢は10万以上に及び日向国方面の主将は豊臣秀長でした。秀長は日向国進軍前に栂牟礼城に一泊、当時その家老であった高虎も城下に宿泊し、このとき惟定と対面したと思われます。
惟定と当時豊臣家に身を寄せていた伊東祐兵の先導で豊臣家の軍勢は日向国に雪崩れ込み、同年4月の
根城坂の戦いで島津家を大敗させ、とうとう降伏に追い込みました。
文禄2年(1593年)、大友家が改易除封となったため惟定も豊後国を退去し、ごく近しい親族や家臣を連れ上洛、豊臣秀長の後継者である秀保を頼ります。しかし秀保も文禄4年に死去、大和中納言家は無嗣改易となったため再度浪人となりますが、まもなく伊予国板島7万石に封じられた高虎に招かれ、その家臣となりました。
「洞津遺文」には次のように出ています。
「佐伯権佐は大神姓豊後大守数百年相続凡そ天下の名家遍く知る所也。没落の後大和大納言殿に仕へ後ち御家に来る。家宝とする所神息太刀其外名器数種あり。其の中に源義経公太刀、旗などもありたり。是れ同家が義経に対する無二の味方故物せらしにていづれも一子相伝し来り他見を禁ず。佐伯町は本与力の士の住居なり。此の西野に一の林即ち佐伯の社なり。祭りは霜月なり。七日の潔斉其の内は登城も不参物頭勤役の時も一の出所断おし出したる事也。・・・大和大納言より拝領金の熨斗付きの刀あり。若し他家に所持せは重器なるべきに権佐家にては軽く取扱ふ也。」
初代 太郎、権頭、権之助
惟定─────────────────────────┐
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┌──────────────────────────┘
│ 二代 権之助
├惟重────────────────────────┐
│ │
├ 女 藤堂采女元則室 │
└ 女 藤堂与一郎忠久室 │
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┌──────────────────────────┘
│ 修理介
├ 惟壽
├ 女 藤堂勘解由氏祥室
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│ 三代 権之助 実は藤堂采女元住次男
└ 惟信───────────────────────┐
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┌──────────────────────────┘
│ 四代 権之助 室は藤堂采女高稠の妹
├ 惟貞
│ 内蔵介(佐伯環家初代) 分知三百石
└ 惟晴
津城下佐伯町にあった佐伯の宮は、後年に至り大市神社(三重県津市岩田6-24)に合祀された。
「草蔭冊子」
・祭神姥嶽神
當杜ハ津藩士族佐伯惟一氏の祖先伊豫國の豪族佐伯権頭藩租高山公に随從して當地へ移住の節岩田郷の
内にて邸宅地を賜ふ(佐伯町是なり) 然るに同氏ハ曾て豊後國に在て同國直入郡姥嶽明神を信仰せらる
ゝヲ以て移住の後同家士等此所へ該神を歓請して祀る處なり今ニ到るも佐伯、高畑の一族崇敬して毎年十
一月廿四日祭典怠る事なしと云 當今受持神官ハ大市神社祠官宮崎吉直氏兼務なり