藤堂高虎
藤堂高虎とその家臣
高虎の人材採用/処遇方針
藤堂和泉守高虎は、武勇勝れたるのみか、其心穏にして、諸臣の評する処、太閤流なりと云へり。
譬えば、家人などにして、暇を乞う者あれば、其者に明朝茶を申さんとて呼出し、手前にて茶を振舞ひ、其座にて佩刀を与へ暇を願の通り遣わすぞ。行先き思わしからすんば、復我方へ来れかし。と言いて、少しも止めず。
一度他へ仕へて、復来れば、本知を与へて、前々の如く召使いし者も多かりしとかや。
「武野燭談」
太祖布衣より起こって封侯と成る、豈、強力にして健行し将を斬り旗を獲るの少勇のみならんや。抑々亦力を假し扶翼せし爪牙の士の如何に多かりしか。吾、竊に其の挙惜の間を窺うに新七郎、玄蕃は宗室より出づ。仁右衛門、作兵衛は甥館より出づ。織部は外家より出づ。式部、右京は故旧より出づ。主膳、兵庫は近侍幸童より出づ。権助、勘兵衛は遊客より出たり。何ぞ曽て人を登用するに一定式あらんや。
「宗国史」
高虎が家臣を採登用するのには秀吉の人材登用を見倣うことがあった様である。一度自分の元を去った家臣でも、見どころがあれば再仕官を認め、以前と同じ待遇でこれを迎えた。
また、その採登用方法には一定のルールなどなかった。ほとんど実力主義であり、良い人材であれば積極的に採用し、重用した。
その証左として、以下が挙げられる。
(1)実力主義1: 親族が頼ってくれば採用はしたが、実力がなけれぱ重用しなかった。
高虎の父方の従兄弟は、いずれも高虎に仕えた。その氏名は父の婿養子の子である新七郎良勝・玄蕃良政を除くと以下のとおり。
村瀬市兵衛吉成 二百石
草野権右衛門 二百石
箕浦作兵衛忠光 二千石 (藤堂姓を下賜。藤堂作兵衛家初代)
匹田勘左衛門常方 二百石
上記のとおり、高禄を与えられたのは作兵衛忠光のみで、他は微禄である。忠光は朝鮮役を初め、戦功を重ねてその実力を示したことから累進して士大将となり、かつ藤堂姓を下賜されたのであり、決して親族であるからという理由だけではなかった。また、忠光の死後、嫡子・忠久は年若く、かつ病弱であったため、禄は半減した。
(2)実力主義2:実力が明らかな家臣は高禄を与え、思い切って権限委譲した。
石田三成が、島左近を召し抱えるのにあたって、自らの所領の半分を割いて招聘したという話はよく知られている。
以下は「常山紀談」に出てくる話である。
「・・・或時秀吉彼の寺に行き、佐吉が明敏なる故、呼出して側へに仕へしが、頻りに禄を増し水口四万石与へられける。後三成に、「人数多(あまた)招きたらん」と問はれしに、「島左近一人呼出候」と申す。秀吉、「それは世に聞ゆる者也。汝が許に小禄にていかで奉公すべき」といはれしかば、三成、「禄の禄の半分を分ち二万石与へ候」と答ふ。秀吉聞きて「君臣の禄相同しといふ事昔より聞も伝へず。いかさまにも其の志ならでは、よも汝には仕へじ、ゆゆしくも計ひたるかな」と深く感ぜられ、島を呼出して、手づから羽織を与へて、「これより三成によく心を合せよ」と言はれけり。」
但し左近が三成に仕えたのは、三成が佐和山19万石の城主になってからという説もあり、そうすると1割を与えたということになるが、それでも破格の待遇を提示したことに変わりはない。
それでは高虎においては、どうであったか。
以下の表は高虎に高禄で招かれた家臣の概要である。これらの人物は、改易された他大名家で名のある人物や豊臣大名であり、いずれも実力が明らかな人物であるが、高待遇で招聘されている。
筆頭は渡辺勘兵衛であり、彼は三成が左近を招いたのと同様の全知行高の10%で招聘されているのである。
さらに高虎は、慶長5年の関ケ原戦後、12万石を加増されているが、内48%を下記5人の招聘に投入しており、いずれも即、一軍を率いていることから、高虎の採用/処遇方針の一端を窺い知ることができる。