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​高虎家臣 氏名 あ~お 迄

【青木忠兵衛】
諱不明。元、石田三成の臣。初め古野氏を称し、江州青木明神の夢想によって姓を改むという。慶長五年、三成に従い関ヶ原の役に出陣。敗北の後は江州能登瀬村に住む。高虎の旧知であった為、慶長七年、招かれ五百石を給された。

【赤井直義】
(荻野金左衛門・悪右衛門)。丹波国黒井城主・赤井(萩野)悪右衛門直正の子。赤井氏は丹波国の土豪で同国氷上郡沼貫庄の赤井野より興こるといわれる。父の直正は赤井越前守時家の子であったが、荻野孫四郎の養子となったことから一時、荻野を姓とした。天文二十三年正月、主君・荻野伊予守秋清を刺殺し黒井城を乗っ取り、この事から悪右衛門と称したという。天正四年、明智光秀の攻略を跳ね返したことで天下に名を轟かせた。直義は天正六年三月、父の病死により黒井城主となったが、翌七年六月、明智光秀の再攻により黒井城は落城。直義は後、荻野金左衛門と称し京都に住む。慶長十五年、山口駿河守の肝煎で伊賀に於いて千石で高虎に召し抱えられる。同時に旧姓に改める様命じられ、足軽大将となり鉄砲足軽五十人を預かる。

【赤井弥七郎】
諱不明。赤井悪右衛門の族にして幕臣・赤井豊後守、赤井平兵衛、赤井太郎左衛門、石川弥左衛門、市尾淡路守などの親類という。慶長の初めから秀吉に仕え、その死後は秀頼に仕えて大坂両陣には城方として戦う。大坂落城後、元和二年、近衛信尹の口入と山口駿河守の肝煎で五百石で召し抱えられる。

【浅井理右衛門】
諱不明。元、戸田勝隆の臣。岸和田城攻めの折、功ありという。慶長元年、大嶋右衛門作の取次により高虎に召し抱えられ二百石を給される。翌二年、朝鮮役に従い、南原城攻めで負傷。慶長五年、関ヶ原陣の際には大坂屋敷を守り、その功により百石加増、三百石となる

 

【浅木一氏】
(三郎右衛門)。元、長宗我部盛親臣。阿波国吉田城・安土山城主・浅木(北村)閑斎の長子。閑斎は長宗我部元親に仕えて戦功ありという。慶長六年、桑名弥次兵衛と共に高虎に二百石で召し抱えられた。

 

【尼子三郎左衛門】
諱不明。中国の名族・尼子氏の族という。初め秀吉に仕え、後、福島正則に仕えたが福島家没落により浪客となった。元和七年、堀直寄・朽木元綱の肝煎で千五百石で召し抱えられ、伊賀附母衣組となる。取次は藤堂左京。

 

【粟屋助太夫】
諱不明。元、豊臣秀頼臣。粟屋五右衛門の子。祖父は元、越前国吉城主であった粟屋越中守勝久)。勝久の子ともいう。大坂両陣は大坂方として戦い敗北の後、元和元年(一説に三年)、沢田忠次の取次により三百石で召し出され湯浅右近組に属す。寛永十二年、死去。

 

【居相政貞】
(孫作)。但馬国養父郡大屋の士・居相肥前守政煕の子。但馬国征伐の際、高虎が政煕に貰い受け、以後高虎に随身した。同国の一揆鎮圧に従う。天正十年正月、三十石を給される。翌十一年、賤ヶ岳戦に従う。文禄元年、朝鮮陣に従軍。文禄四年、高虎の伊予入封の際、千石を与えられたが、辞退。慶長の役にも従軍し南原城攻撃に参加。

 

【飯田権之丞】
(伝吉、雲水軒)。諱不明。元、徳川頼宣臣。明人で名を楊華源、字名を文益という。朝鮮役の折、戦場で高虎の捕虜となり日本に連行され、後に高虎から家康に献上されて家康の小姓となった。後、駿府に於いて喧嘩、数人を斬殺し家康の命で、慶長十六年、高虎に預けられた。同年、高虎より五百石を給される。

 

【池田権左衛門】
諱不明。元、遠藤慶隆臣。元和七年、近藤石見守、本多太郎左衛門、森川金右衛門、坪内宗兵衛ら四人の肝煎で召し出され四百石を賜り、藤堂内匠組に入る。寛永九年、奏者番となり百石加増。後、百石加増。同十九年、三百石加増され九百石となり、百々太郎兵衛の後任として津の加判奉行となる。

 

【池田秀氏】
(伊予守)。諱は高祐とも。池田伊予守秀雄の子。池田氏は近江国伊賀郡池田より起こり、秀氏の父・伊予守秀雄の時に信長、次いで秀吉に仕えた。秀雄は文禄四年、関白秀次切腹の検使役を勤めた功により伊予国分城八万石を賜り、朝鮮役に従い、慶長三年三月末、安骨浦に於いて病死した。子の秀氏には父の遺領が与えられず、喜多郡に移されて大洲城二万石を与えられた。慶長五年、関ヶ原の折に秀氏は西軍につき、敗北の後、高野山に入る。高虎が家康に助命を願った事により一命を許され、以後高虎から合力米を受けた。元和二年、梅原武政の取次で高虎に招かれ、伊賀に移って五千石を給される。これが後、伊予丸と呼ばれるようになった。元和年中に狂病を患い死去した。旧臣の梅原武政が訪ねてきた時、いきなり切り掛かり、驚いた武政が刀を奪い取る事があったといわれる。京都に於いて病卒ともいう。

 

【石田武清】
(才助、三郎左衛門)。父は石田清兵衛、母は武井忠兵衛の女。慶長十三年、津に於いて十六歳で高虎に直に召し出され二百石を給されて近臣となる。同十四年、丹波篠山普請に従い、百石加増。翌十五年、丹波亀山普請に従事。同十七年、二百石加増され都合五百石。才助は高虎の落胤と伝える。母は高虎の侍女で懐胎の後、外に嫁せられたが、夫がまもなく死去したため母子ともに石田清兵衛に預けられた。これにより武清は石田を姓としたという。

 

【石田武長】
(清兵衛)。天正十年、但馬に於いて十六歳で高虎に召し出され、その小姓となる。朝鮮両陣に従う。予州にて郡奉行職を勤め三百石。慶長十三年八月、転封の際、七百石加増され千石となり伊賀の奉行を命じられ、鉄砲足軽を預かる。同十六年春には伊賀上野の町割普請を司る。
 
【磯野行信】
(右近)。元、石田三成臣。高虎の旧主で近江国佐和山城主・磯野丹波守員昌の子。慶長五年、関ヶ原陣の後は近江に隠遁。同年、高虎が長野喜太右衛門に命じて招かせた。行信は当初、固辞していたが再三に及ぶ招きに断り切れず、長野に同伴され大坂に来て高虎に閲し千石を給された。

 

【磯野行尚】
(平三郎)。行信の長男。元、石田三成の臣で三成の近習。関ヶ原を落ちる三成に最後まで付き従った者の一人。慶長五年、父と共に高虎に召し抱えられた。慶長七年、召し出され別知三百石を給される。後、二百石加増。大坂両役に従い、特に夏の陣では赤母衣を勤め甲首を取り二百石加増。後、この首が増田兵部少輔盛次と判明し、元和五年、父の遺領の内から三百石を与えられ千石。

 

【市田氏吉】
(十右衛門)。生国・丹波、本国・豊後。元、桑山伊賀守元晴臣。文禄三年に召し出され高麗役帰陣の後、百五十石を賜う。一説に慶長二年召し出さるという。慶長五年、関ヶ原陣の折、高虎は南部藤兵衛に松寿院への使者を命じたが、藤兵衛は大坂屋敷を見張っていた西軍の兵に捕らえられ牢に入れられてしまったので、今度は氏吉に使者を命じた。そこで氏吉は大坂に赴いたが道筋の関所が厳戒を極め、通れそうもないので乞食に変装してこれを潜り抜けた。また、屋敷の門番にはこの手が通用しないと見て今度は野菜売りに変装し門を通って松寿院へ高虎の言葉を伝え、返事を貰った。漸く使命を果たして帰ろうとすると門を出る時、番人に見咎められ捕縛され、やむなくそのまま牢中にいた。関ヶ原陣後、解放された。高虎はこの苦労を賞して氏吉に五十石の加増を与え二百石となる。

 

【稲葉家盛】
(小左衛門)。元和元年、大坂夏の陣の際、戦場に於いて召し抱えられ藤堂勘解由隊下に属す。帰陣後、戦功により報奨として銀子一枚。程なく新知二百石を給される。翌二年、出奔した大久保次郎兵衛の捜索を命じられる。後、五十石加増。寛永十四年、百五十石加増され四百石となり納戸役を命ぜられる。

 

【井上豊一】
(重右衛門)。井上助右衛門の子。慶長十二年、召し出される。大坂両陣には旗本組に属し従軍。陣後、報奨として金子一枚。元和四年、父の致仕時に父禄二百石を合わせて四百石となる。同七年、百石加増され五百石となる。寛永六年正月、五百石加増され都合千石。翌年、高虎の二子・高重の附臣となり江戸詰となる。

 

【今井忠氏】
(次郎右衛門、号・治斎)。天正十三年、紀伊粉河に於いて召し出され百石を給される。智あって正しく、厳格な性質であった為、高虎の出陣毎に留守を守るという。慶長五年、関ヶ原陣の際には板島を守る。同十三年、勢伊移封の際に富田家への城地引き渡しに関わる

 

【今西孫三郎】
(大蔵)。諱不明。藤堂平介景政の子。慶長十一年、父の遺禄・二百石を継ぐ。大坂両陣に従う。故有って藤堂姓を名乗らず今西孫三郎と称すという。

 

【入交 信】
(松田豊後守)。入交助六左衛門の子。入交家は初め土佐一条家に仕え、後、長宗我部元親に属す。信は長宗我部家で三千石を領すという。長宗我部家没落後、慶長六年、高虎に招かれたが仕官を辞退し、息子四人を仕えさせた。慶長十八年六月二十四日、死去。

 

【入交重俊】
(助左衛門)。元、長宗我部盛親臣。入交信の三男。慶長五年、矢倉大右衛門の取次により召し出され百石を給される。慶長二十年、大坂冬の陣後、五十石加増(2)。両役とも桑名弥次兵衛隊下に属した。夏の陣後、報奨として金子一枚。

 

【内海重次】
(北川土佐、左門、六郎左衛門、号・紹節)生国・近江。古屋喜左衛門の子という。元、蒲生氏郷に仕え、武功があった。特に天正十八年、小田原城夜襲に大功を顕し、奥州津川城代となる(2)。蒲生家減知の後、石田三成に招かれその臣となった。慶長五年の関ヶ原敗軍の折、落ち行く三成に随行しようとしたが、逃亡の妨げになると諭され、三成と別れて故郷の近江日野に隠遁。同年、高虎は岡田将監善治を頼んで重次を招き五百石を給し鉄砲足軽三十人を預けて足軽大将とした。この時、姓を改めて内海と称す。重次は戸田清玄の高弟である中堀玄清に六尺柄の鍵槍を学んで一流を創始し内海流と称し、同流鎗術は幕末まで藩の御流儀として伝承された。

 

【梅原武政】
(勝右衛門)。元、池田伊予守秀氏臣。父は梅原将監武藤(号・道也)。母は菊池肥前守親政の女。藤堂新助良政の異父弟。よって新七郎良勝と高虎の叔父に当たる。武勇の士で一代の武功数知れずといわれる。弱冠より池田秀雄に仕え、『岩夜叉』と呼ばれた。元亀四年七月、秀雄に従い十六歳で徒士として宇治川に参陣。慶長二年、秀雄に従い朝鮮役に出陣。秀雄の死後は子の秀氏に仕えた。慶長五年、関ヶ原戦により池田家は没落。翌年九月、高虎に新七郎良勝を使として招かれ、千石を給されて鉄砲足軽を預かった。大坂冬の陣には右中軍足軽大将、翌元和元年の大坂夏陣には右先手足軽大将となる。寛永十六年十一月十七日、死去。八十一歳。室は奥田三河守忠高の女)。

 

【大木長右衛門】
諱不明。元亀元年頃より高虎に随身し、姉川合戦に従う。天正四年、高虎が秀長に仕える際に召し連れられた。以後、天正八年よりの但馬国平定、同十三年の紀伊国雑賀陣、阿波国一宮木津城攻め、同十五年の九州陣、同十八年の小田原陣と高虎に従い各所を転戦した。文禄四年、高虎が高野山に上った時、供をした内の一人。同年、高虎が宇和島七万石に封ぜられた際、長右衛門、服部竹助、居相孫作らに一千石づづ与えたが、長右衛門ら三人は十人分の働きは一人では出来ない事を言上し、百石取りの者を三十人召し抱える様、進言。禄を辞退し合力米六十石を与えられた。後に二百石加増され二百六十石となる。慶長二年、朝鮮再陣に従い、八月の南原城攻めで功があった。同五年、関ヶ原陣の際には塩泉城の留守居を命じられ一揆制圧に尽力。

 

【大島景倫】
(右衛門作)。慶長元年、磯野右近の肝煎と渡辺市左衛門の取次により召し出される。慶長十三年、伊州の監察を命じられる。後、五百石となり留守居に命じられ、旗持十人を預かるという。同十九年、大坂冬の陣には幟奉行、翌夏の陣には組外馬上士となる。

 

【大津正員】
(壹岐、伝十郎)。父は大津伝十郎正継、母は丹羽長秀の妹か、とすれば宮内高吉の叔父にあたる。父は信長の側近で名高い。元、丹羽長重臣。慶長六年、召し出され千石を給される。同十九年、大坂冬の陣には黒母衣組、翌年の夏の陣にも黒母衣組に属し、陣後、四百石加増。後、藩を追放され官仕を構われる。

 

【岡本権内】
諱不明。天正十三年春、紀州粉河に於いて高虎に仕え百石を給される。翌十四年八月、紀州一揆制圧の際功あって五十石加増され高虎より感状を与えられた。文禄の役に従い武功をあげ高虎の父・虎高より連名の感状を与えられた。文禄四年、伊予入封の際、五十石加増、郡奉行を命じられる。慶長五年の関ヶ原陣には留守居。

 

【岡本安貞】
(次郎太郎、清三郎、五郎左衛門、弥一右衛門、田原助右衛門、号・道可)。諱は安長、安次ともいった。父は坂 金助清安、母は岡本太郎左衛門の姉。安貞はその五男である。天正十一年、三河国にて出生。文禄三年、十一歳の時、熊谷大膳直之に仕え百五十石を給される。同四年、秀次事件に連座して熊谷直之は生害。安貞は有馬玄蕃頭豊氏に仕えた。慶長五年、豊氏に従い関ヶ原役に従う。同六年、有馬家を辞去し松平薩摩守忠吉に仕え三百石。同十二年、忠吉の死去により浪人となり、武者修行をしながら諸国を歩いた。慶長十四年、藤堂主膳の取次により高虎に召し抱えられ三百石を給される。その後、辞去して他家に仕え、元和九年、分部左京光嘉、日下部大隅守の肝煎により帰参。寛永十六年十一月、また辞去して浪人となる。同十七年頃、剃髪して道可と称し京都に住む。正保三年十一月、安藤右京進重信の肝煎で子の安光と共に召し返され、隠居料二十人扶持を給された。慶安五年二月十日、死去。安貞は高名な渡り奉公人で、内海左門重次の高弟でもあり、重次より槍術の奥義を受けた。

 

【小川元政】
(五郎兵衛)。元、増田長盛臣。小川氏は近江国高嶋郡小川村より出るという。元政は慶長五年、増田家没落により浪人。慶長六年、高虎に召し出され三百石を給される。同十九年の大坂冬の陣には左先手の足軽大将となり、翌元和元年の大坂夏の陣には黒母衣組に属し、陣後、功により二百石加増。

 

【奥山右近】
(弥五左衛門、五郎左衛門)。諱不明。伊勢稲生城主・稲生氏の出身。稲生某入道古帆の子で奥山氏の養子となる。兄は武田雅楽。若年の頃から富田信濃守信高に仕えると伝える。慶長五年、関ヶ原陣の折、安濃津城に籠城し西軍の毛利・長束軍と戦う。慶長十年、保田甚兵衛の肝煎により高虎に召し出され三百石を給される。慶長末、百石加増され足軽大将となる。

 

【押川正重】
(権左衛門)。押川内蔵介の子。押川氏は元、土佐国一条氏の臣で押ノ川城主であったが、天正三年以後、長宗我部元親に臣従した。正重は慶長五年、長宗我部家没落により高虎の元に身を寄せ、後、藤堂玄蕃良重の家士となる。大坂両役には良重に従い出陣、元和元年、直臣に召し出されて千石を給されたが、分知を願い親兄弟に禄を分け与えた。親の内蔵介は元、長宗我部盛親に仕え黒母衣八人の内であったといわれる。

 

【織田信重】
(芦田庄九郎、三左衛門、主水、号・半斎)。諱は昌澄とも称す。父は津田信澄、母は明智光秀の女。祖父の織田信行は信長の弟である。父の信澄は天正十年六月、本能寺の変の直後、光秀の婿であった為、丹羽長秀・織田信孝に攻められ大坂城内で自殺。父の没時、信重は僅か二歳で乳母に抱かれて脱出した。後、高虎の元へ至り匿われて隠禄を与えられ、芦田庄九郎昌隆と名乗る。文禄元年、朝鮮の役に高虎に従って従軍した。慶長五年、関ヶ原陣の折、板島領内で一揆を起こした三瀬六兵衛を討ち取った。後、豊臣秀頼に仕え、大坂夏の陣の時、高虎の軍勢と戦って軍功があり、大坂落城の後、高虎が家康に執り成した為、許された。同四年十一月、秀忠に召され、二千石を給され幕臣となる。寛永十八年三月二十六日、死去。室は安西氏の女。信重の母は秀頼の簾中に仕えるという。

 

【越知一盛】
(忠次郎、兵左衛門、太左衛門)。越知太左衛門の子。大坂両陣には父と共に藤堂主膳組に属す。元和元年、大坂夏の陣の折の武功を以て藤堂主膳の取次により召し出され、別禄百五十石を給された。寛永九年、父の病死により遺禄三百石を給された。それまでの別禄は収公。寛永二十年二月、死去。

【小野元長】
(正兵衛、藤右衛門)。元成の次男。父の元成は天正十四年頃より高虎に仕え、朝鮮両役に従軍し慶長二年、朝鮮に於いて戦死した。元長は慶長四年、矢倉大右衛門の取次により召し出された。大坂両陣には渡辺掃部組に属すか。陣後、報奨として銀子一枚。

 

【尾呂志伝兵衛】
諱不明。尾呂志氏は元、紀伊国尾呂志城主で国野見宿禰の末という。初め豊臣秀長、その死後は秀保に仕えた。文禄元年、朝鮮役に従軍。秀保の死後は秀吉に属すか。慶長二年、筑後に赴き田中筑後守吉政に仕える。元和六年、田中家は嗣子無きを以て断絶。同年、高虎に招かれ千六百五十石を給されて母衣組に属す。

 

【下石頼安】
(長左衛門)。父は下石掃部頭頼良。父の頼良は織田信長に仕えて度々戦功ありという。本能寺の変の際には中川瀬兵衛方に寄宿していた。その後、小早川家に仕えて病死。頼安は父の病死後、石川備前守貞清に仕えた。慶長五年、石川家が改易となった為、池田備中守長吉に仕え、大坂陣に従う。其後、知行に不服があり池田家を立ち退き、元和三年、石川備前守貞清の肝煎と藤堂采女の取次により召し抱えられ三百石を給された。

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