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​高虎家臣 氏名 さ~そ 迄

【佐伯惟定】
(太郎・権正・権頭・権之佐)。佐伯弾正少弼惟真の子。佐伯氏は豊後の国人・大神一族の流れで、佐伯荘に住した事から佐伯姓を称し代々大友氏の麾下に属した。十三代・惟治の頃から栂牟礼城主となる。惟定は日向高城合戦で戦死した祖父、父の後を継いで佐伯氏十七代を継いだ。天正七年頃より度々島津方に与した日向勢を撃退。同十四年十月、島津家久は日向より豊後海部郡に侵攻、同月二十三日、惟定に降伏勧告の為の使僧を派遣したが、惟定はこれを拒絶し、使者一行を佐伯番匠淵で残らず斬った。十二月の初めより来襲した島津勢を各所で撃退、島津方に寝返った諸城の回復に努める。天正十五年正月、豊臣秀吉は感状を惟定に与え、栂牟礼城固守を賞賛。また同年、日向に南下する豊臣秀長勢の案内役を務めたが、その際、豊臣秀長は栂牟礼城に一泊、高虎は惟定の家臣・佐伯次郎左衛門惟澄の宅に宿泊した。文禄元年、大友義統に従い朝鮮遠征に従軍。文禄二年、大友吉統の失敗・除国に伴い浪人となり、同年、豊臣中納言秀保を頼り、その麾下の高虎に属して五百人扶持を給され、文禄三年、伊予入封の際、新知二千石を給された。慶長元年頃から藤堂太郎左衛門と共に板島城築城の普請を担当した。同年の朝鮮遠征には留守役を勤め、当初家士のみ出陣したが、後より呼び寄せられ番船を預かった。慶長五年、関ヶ原の合戦には伊予板島城の留守居役を命じられた。慶長六年、膳所城普請、慶長九年、伏見城の普請に従い、慶長十年、江戸城普請を勤め四百四十石加増され秩禄四千石、鉄砲足軽二十人を預かる。慶長十一年、江戸城天守閣・大手口縄張普請に従う。同十五年、丹波亀山城普請に服し、同十六年、江戸屋敷普請を勤める。慶長十九年十月の大坂冬の陣には旗本士大将。翌元和元年四月の大坂夏の陣には遊軍となり、五月六日の戦闘で先鋒の新七郎、仁右衛門、玄蕃、桑名弥次兵衛らが全て戦死してしまった為、七日より藤堂宮内高吉と共に左先鋒となった。同陣の功により同年、五百石加増、四千五百石となる。伊予宇和島、伊勢津の佐伯町は惟定とその家士の居館があった事に因むといわれる。

【坂井直義】
(与右衛門、土佐守)。坂井与右衛門直政(直勝とも)の三男。坂井氏は清和源氏土岐氏の分流で、美濃国各勢郡坂井に拠ったところから坂井氏を称すとされる。父の直政は初め斎藤龍興に仕えたが、永禄七年秋より織田信長、次いで丹羽長秀に属して功があり、特に永禄十二年、三好三人衆が京都六条に侵攻した際には摂津国高槻より急ぎ赴いてこれと戦い、六条表の花槍と称された。長秀の死後は秀吉の命でその子・長重の伝臣となり、長重領内に於いて一万石を与えられていた。直義も丹羽長重に仕え、丹羽家では千五百石を食した。慶長十四年、佐久間河内守政実の肝煎で高虎に召し出され、千石を給されて母衣組に列する。大坂両陣には黒母衣組に属し、翌年の夏陣には黒母衣組の母衣頭を務めて大功を挙げた。

【佐久間勘右衛門】
(九郎右衛門)。諱不明。佐久間小三郎の子。慶長十八年、同族の幕臣・佐久間大膳亮の肝煎により江戸に於いて召し抱えられ四百石を給される。大坂両陣には須知主水隊下に属すか。陣後、報奨として銀子一枚。元和六年、大坂城普請に従事。同九年、百石加増され監察兼任のまま普請奉行となる。

【佐藤安兵衛】
元、堀尾山城守忠晴臣。元和元年、藤堂采女の取次により召し抱えられ百五十石を給される。寛永十二年、城和郡奉行に命じられる。同十五年八月、荒木又右衛門、渡辺数馬護送の際、笠置より先の行程につき、探索を命じられる。

【沢田忠次】
(麻生半右衛門、但馬)。沢田氏は宇多源氏の流れを汲み、初め六角氏に仕えたが、曾祖父の豊後守元忠の代に越前朝倉氏に仕えるという。忠次は永禄元年、越前北庄に於いて出生。敦賀の郷士・麻生紀伊守に養育され、初め麻生を称した。十四歳の時、粟屋越中守勝久に仕え、生涯の主君十二、三人という。慶長十七年、京極家を辞去して伏見に滞在していた処を高虎の命を受けた渡辺勘兵衛、磯野右近に招かれ駿府で高虎に謁し、千石を給された。翌十八年、故あって安濃郡内田村に蟄居。同十九年、百人扶持を給される。慶長十九年の大坂冬陣には黒母衣組。同年十二月末、管 平右衛門切腹の検死役を務めた。帰陣後、千石加増され二千石となり鉄砲足軽六十人を預かる。翌年の夏陣には左先手の足軽大将となり預かりの鉄砲足軽を率いた。帰陣後、五百石加増され二千五百石となる。

【沢 満廉】
(左平次、隼人正)。沢源六郎親満の子。沢氏は元、伊勢国宇陀郡の沢城主で室町時代頃より伊勢北畠氏の麾下にあって秋山・芳野氏と共に「宇陀三将」と呼ばれた。父の親満が高虎と大和大納言家での旧知であった為、満廉は慶長六年、十四歳の時、伊予宇和島に於いて高虎に召し抱えられ千石を給され小姓となった。一説に織田信雄の肝煎ともいう。後、母衣組に列する。翌元和元年の大阪夏の陣には藤堂新七郎隊下に属し、五月六日戦死。

【島川 宗】
(専助)。慶長二年、田中林斎の取次により召し抱えられ二百石を給される。一説に慶長七年ともいう。大坂両陣には渡辺掃部組に属し、夏の陣に負傷。慶安三年十月、死去。

【白井長胤】
(九兵衛)。白井民部丞勝胤の子。白井民部少輔政胤の弟。白井氏は元、若狭国加茂城主で若狭守護・武田氏に従い各地を転戦したが、武田氏の没落の後は織田信長に属した。兄の長胤は後、丹羽長秀、天正十年頃から豊臣秀吉の養子・秀次に仕えたが、文禄四年、秀次事件の為、処断された。長胤は天正十五年、長屋若狭の取次で大和郡山に於いて高虎に召し出される。拝謁は藤堂次郎八の手引きによるという。文禄の役に従い、慶長元年、高虎の伊予入封の際、二百石を給された。慶長の役に従い、同五年、関ヶ原陣に従う。慶長十二年正月、三百石加増され五百石となる。慶長十九年の大坂冬陣には左中軍の足軽大将、翌年の大坂夏陣には中軍足軽大将となった。

【杉山四郎右衛門】
(藤兵衛)。諱不明。元、織田秀信臣で、慶長五年、関ヶ原戦の際には岐阜城に籠城したという(1)。同十三年、藤堂采女の取次により召し抱えられ二百石を給される。大坂両陣には藤堂采女組。陣後、報奨として金子一枚。

【宿毛甚左衛門】
諱不明。元、長宗我部盛親臣。父は長宗我部右衛門太夫(野田、宿毛甚左衛門)。母は本山式部少輔茂辰の女。長宗我部氏の一族で、同家に仕えた。天正十年、阿波国勝瑞城攻撃に参加。元親に仕えて功があり、その遺言にも関わる士だが、経歴はよく分かっていない。慶長五年、関ヶ原陣に盛親に従い安濃津城攻撃に参加、帰国後、浦戸一揆の鎮圧に加わる。同十四年、高虎に招かれ千石を給され足軽大将となる。同十九年、大坂冬の陣には先手足軽大将となり鉄砲足軽二十人を率い、翌元和元年にも左先手の足軽大将となり鉄砲卒四十人を率いた。

【鈴木正勝】
(次郎左衛門)。天正十九年、高橋甚内の取次により召し抱えられる。慶長十九年、大坂冬の陣には旗本前備に属し弓足軽十五人を率いる。陣後二百石加増され千石、足軽大将。夏の陣には出陣せずか。寛永五年、南禅寺山門造営の添奉行を勤める。同六年、死去。

【須知定信】
(主水、出羽、号・梅雪)。山内孫十郎定家の子。須知出羽守元秀の養子となり須知を称すという。須知氏は遠江国周知郡に住した周知景基が源為義に従い丹波国に移って須知氏の初代となり、九代・秀基が足利尊氏挙兵時に活躍して同国市森の須知城主となったものといわれる。また、山内氏は元、丹波国紅村城主で、山内首藤氏の支流という。天正八年正月十七日、明智光秀の丹波攻略により、市森城は落城し須知氏は没落。定信は毛利高政に仕えた。高政に従い朝鮮両役に従軍。慶長三年、高虎が毛利高政に懇願して貰い受けた。以後、高虎の家臣となり、翌年、二千石を給される。同五年、関ヶ原陣に従う。同六年、高虎は家康より福島正則監視を命じられた為、定信を伊予国甘崎城々代とし、来島家の旧臣十余人を隊士として預けた。これが後、久留島衆と呼ばれる様になる。同十九年の大坂冬陣には旗本士大将、翌元和元年の夏陣にも旗本士大将を務めた。元和年中に出羽と改めた。

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