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堀内家

 紀伊国新宮城主であった堀内安房守氏善の子である氏治を初代とする。

 

 堀内氏は、紀伊国熊野をの国人で天正十三年から開始された秀吉の紀伊侵攻に対し、降伏して

家臣となり、二万七千石を安堵され、紀伊南部の支配を委任された。
 文禄元年、朝鮮役に水軍として従軍。慶長五年、関ケ原戦の際に西軍に応じて改易となり、

氏善・氏治は加藤清正に預けられた。氏善は慶長十四年配所で没し、墓は熊本県宇土市の三宝院

にある。

 

 慶長十九年、氏善の子である新宮左馬助行朝、堀内主水氏久らは大坂方からの勧誘に応じて

大坂城に入城。二人は翌年の大坂夏の陣においても城方として戦ったが、五月七日の落城時、

堀内主水氏久は、城から脱出する千姫に行き合い、これを護衛して茶臼山の家康本陣に送り届けた。

この功によって堀内氏は家康から特に罪を免じられ氏久は旗本となった。

 氏治は、父と共に加藤清正に預けられて後、その家臣となっていたが、寛永九年、加藤忠広の

改易により浪人となったため、藤堂家に召し抱えられた。

[堀内氏系図]

 堀内安房守
氏虎 ───────────────────────┐
                          │
┌─────────────────────────┘
│ 宮内少輔
├氏高

│ 安房守
└氏善───────────────────────┐
                          │
┌─────────────────────────┘

│ 行朝 新宮左馬助 若狭守
├氏弘

│ 大和守
├重朝 
│ 
│ 初め氏定 主水
├氏久 
│ 
├道慶 那智山実方院

│ 有馬主膳
├氏時

│ 
├氏清

│ 右衛門兵衛
└氏治

 

氏治が藤堂家を頼れたのは、その妻が長 織部連房の娘で、高次の生母・松寿院と姉妹であった

からである。つまり氏治は、高虎と義兄弟で二代藩主・高次の叔母婿に当たる。

[長家系図]

長越前守長谷部連久後高連
┌織部連房──藤堂監物
├女子 藤堂佐渡守高虎室 初宮部備前守室
├女子 高虎養女 横濱一庵法印室 いかゝ
├女子 片倉小十郎室
├女子 紀州新宮 堀内小次郎室
├女子 洛陽佛光寺上人室
└杢  宮部備前守善祥坊入道養子と成備前守亡後藤堂家に来

 

[紀州郡主旧記]
堀内左衛門兵衛と申候は是は房州外戚腹之子息にて御座候 藤堂大学殿姨聟にて御座候

只今大学殿え來弐千石計取居被申由 房州被官共方々に居申覚」

 初代・氏治は千五百石を給され、内五百石は特に無役に命じられ、明歴元年に死去した。
 氏治には、三人の子があり、嫡子・左近に六百石、次男・十太夫に二百五十石、

三男・彦之丞に百五十石が与えられることになったが、長男の左近から、
「これでは以前より抱えている家臣を養えないので禄を返上したい」との申し出があった。

 結局、次男・十太夫(藤太夫)が伊賀附家臣として続き、三男・彦之丞は寛文九年の
久居藩成立時に同藩士に転じた。

 

 幕末の分限帳によると、伊賀附藤堂豊前組に「百八十石 堀内権十郎」とあるから

十太夫の子孫は廃藩まで続いたものと思われる。

 

 久居藩士となった彦之丞は、何らかの落ち度があったらしく寛文十二年に改易処分と

なった。

 上記のとおり藤堂家に仕えたのは、堀内右衛門兵衛氏治であって、巷説に新宮左馬助行朝が

藤堂家に仕えたとあるのは誤りであるが、行朝も藤堂家とは些か因縁がある。

 彼は、高虎と渡辺勘兵衛の不和に一役買っているのである。

 

〔西島留書〕
小山より住吉前へ御陣替被成候此時龍城の内より紀の国しんくうと申者堺の町を地焼可仕とて罷出候

然処いまだ早天事の外霧深く一円先見え不申候に付見合罷在候所へ高山様の先手参懸り候得共是も

霧ふかく敵味方のわかち見わけ不申候処しんぐうよせ手と見つけ申急引取申候

 扨は敵にて有之たるとて追申候得共霧ふかく御座候て見え不申候に付しんぐう霧のまきれに

にけすまし申候 高山様申之外御機嫌悪く御座候き軍神の血まつりに初手一番の首共を御上け可被成

と加様の御残多儀ハ無之大しやうかんを御煩被成候よりは御むねくるしきと御意被成候き手もとまて

参候敵をのがし候儀両上様御うたかひも可有御座かとて御誓紙を遊し御あけ被成候き私書申候

 

〔摂戦実録〕
同十月廿九日云々槙島赤座ハ藤井寺辺迄引来る所に其近辺の野間まて関東勢の備頭見る由告来れは

両人は早速大阪へ引入間堀内左馬助は大胆にて堺に居残て近辺を侵掠し藤堂石川等の旗先程近く

見へけれは一刻も早く引取へしと主馬方より追々申遺けれ共左馬助是を用す 相従ふ士卒には是に

騒動すれは何方へか寄手は近付ぬらんと手勢百七八拾にて堺を出て住吉の南の原へ押上て見れは

藤堂先手渡辺勘兵衛千余人にて岸際を去事二丁余りに備へたる処に出合たり 左馬助大に驚て

敵爰に在りと捨鞭打て住吉さして通りたり 藤堂が先勢とも好き仕物そと皆々乗出し追懸んとせしを

渡辺制して曰く敵奇兵を残し置て誘ひ懸りたると覚へたり 是を追住吉へ至らは奇兵横槍を以て

胴勢の内を取切らんとの術なるへし 今朝霧深く遠近計り難し出へからすと申すに依て衆軍相止れは

左馬助辛き命を拾ひて霧紛れに大阪さして引入たり 主馬か下知に付同組の米田監物塙團右衛門

御宿勘兵衛天下茶屋まて其迎として来り左馬助不敵なりと口々に叫ひ相伴ひ大阪へ引取云々

 上記のとおり、慶長十九年十月二十九日未明、関東勢来るの報を受けて城方の兵が大坂に

引き取る中、堺に居残っていた新宮左馬助行朝は、独断で手勢を率いて住吉から南進を図った。

 

 当日は濃霧で視界が悪く、折しも進軍中だった藤堂家の先手である渡辺勘兵衛の軍勢と遭遇

することになった。

 行朝は驚いて退却を指示、住吉まで引き取ったが、勘兵衛はこの動きを味方を引き込むため

策略と判断して追撃しなかったのである。報告を受けた高虎は、「なぜ追撃しなかったのか!」

と勘兵衛を詰り、これが発端で高虎と勘兵衛は不和になって翌年の勘兵衛の藤堂家退去に

繋がるのである。

 

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