藤堂高虎
藤堂高虎とその家臣
藤堂内匠家
藤堂内匠家の初代は高虎の異父弟・正高です。
正高は高虎とは三十一歳離れていますから随分歳の違う弟でした。関が原戦時ですら漸く十三歳ですから
高虎が戦に明け暮れ、留守の多かった間に幼少期を過ごし、漸く初陣を果たしたのは慶長十九年の大坂冬の陣で
二十八歳の時です。従って正高に武将らしい逸話や戦功に係る話はありませんが、面白いのは人質として長く
江戸に暮らし、徳川秀忠の側近くに仕えた経歴があることです。
高虎は徳川家への忠誠の証として早くから人質を江戸に置いたことで知られていますが、正高は慶長元年に
江戸に人質として下っています。それまで幼名を名乗っていましたが、この時、家康より内匠助と名乗る様
命じられ改名。その後、如何なる訳か秀忠の側近くに勤務し、慶長十年の秀忠の上洛にも従っています。
おそらく高虎の意向によるものでしょうが、自分に万一のことがあったことに備えて次代将軍・秀忠の側近くに
近親を置くとは抜け目ない高虎らしい手配りです。
慶長11年、高虎の側室・松寿院と世子・高次が人質として江戸に下ったため、正高は高虎の元に戻り以後
その元で勤務しました。
慶長19年、大坂冬の陣に際して正高は兄・出雲高清と共に中軍に配置されましたが、経験のない兄弟を補佐
するため老巧の梅原勝右衛門武政が相備を命じられました。
翌年の大坂夏の陣に於いて、高虎は二弟に対してそれぞれ名張城・上野城を預けて留守居を命じます。
なぜ二人に留守を命じたのか、やはり前年の行動を見て経験不足の二人は危ういと思ったのか、それとも領内に
潜む一揆を危惧し信頼の置ける近親に後背を任せる意向だったのか、他に理由があったのか不明ですが、高清は
名張城、正高は上野城を預けられ、民政を担当する奉行がこれを補佐し不測の事態に備えることになりました。
ところが弟二人としてはこのタイミングを逃すと二度と戦功を挙げる機会はないと考えたらしく、高虎の命令を
敢えて無視することにしました。つまり奉行に城を預けて僅かな供回りを連れて戦場に至り、なし崩し的に決戦に
参加しようと試みたのです。高虎が心意気を買ってくれると楽観していたかもしれません。しかし高虎は弟だから
などという理由で軍令違反を免じるような甘い男ではありませんでした。
先に兄・出雲高清が来て高虎の前に進み出、戦闘参加を請願します。当然、高虎は烈火の如く怒り、
「おまえには名張城の留守を任せたはずだ!なぜ命令に背いた上ノコノコとこの場へ現れ愚かな願いを述べるか!」
と言うと高清は
「いや、伊賀の留守については弟の正高に任せて来ましたのでどうぞご心配なく」
と抗弁します。そこへ今度は正高が現れ、
「どうか陣の端に加えて下さい」
と同様に戦闘参加を請願したため、高虎の怒りは頂点に達し、両人共に藤堂家の陣から叩き出されてしまいました。
正高は致し方なく兄・高清と共に陣外に野営することにし五月六日、七日の合戦に勝手に藤堂家の軍勢に加わり
参加、乱戦の中で奮闘していくらかの敵を討ち取りました。戦功を立てれば高虎も考えてくれるかも知れないと、
なおも考えていたかも知れませんが、その見通しは甚だ甘いといわざるを得ませんでした。
高虎の生涯で最も被害の多かったとも言えるこの戦闘で、高虎は共に苦難を乗り越えてきた重臣達を一挙に
失ったばかりか、信頼する家臣を多数失い失意のドン底にありました。その中で軍令違反を犯した者に温情を
掛けるなど凡そ有り得ないことだったのです。
帰国後。正高は兄・高清と共に改易され知行・屋敷・家臣・与力一切を没収されて伊勢国三ヶ野村に蟄居を
命じられます。
大坂夏の陣でベテラン指揮官である士大将が大部分戦死し、戦歴豊富な家臣も多数倒れ、さらには渡辺勘兵衛の
退去によって藤堂家の兵制は半壊同然となりました。
そこで高虎は思い切った処置を取ります。改易された大名家の家臣、大坂浪人など在野の古強者を掻き集めて
侍組を編成し、同じく浪人の小森彦右衛門定勝や湯浅右近直治を高禄で招き士大将に抜擢、その指揮を任せて兵制
の再構築を行いました。定勝は堀家で、忠治は豊臣家で長く指揮官を勤めた人物です。
高清や正高が復職して士大将に就任する選択肢もあった筈ですが、天下は未だ静謐には程遠く、軍勢の指揮は
経験がものを言うことを高虎は知りすぎる程良く知っていました。
元和五年、四年余の歳月を経て正高と高清は漸く蟄居処分を解かれ復職を許されました。正高は禄を戻されて
三千石を給され重臣の列に復帰します。
ところで藤堂家は三十二万三千九百石余を領有していましたが、その内に飛地として下総国に三千石の領地を
持っていました。これは元々、正高が徳川家に勤仕していた際に家康から与えられたもので、元和三年に至って
高虎の領地に加えられ正高は高虎から同じ石高の知行を領内で与えられています。
「德川實紀」によると「十月朔日藤堂和泉守高虎に伊勢國田丸に於て五万石の地をくはへられ先に弟内匠助
正高に賜ふ所の下総国香取郡の所領三千石を合せて三十二万三千九百石余を領せしめらる。正高は大坂陣に
軍令をそむき兄高虎の勘氣をうけしかば采邑を除かれ後ゆるされてその家臣になりしなり」とあります。
寛永六年、正高は病に倒れ高虎より先に死去しました。以後、内匠家は家老や番頭を輩出する重臣として
明治に至ります。
藤堂越後守
良隆────────┐
┌─────────┘
│源助
├虎高────────────────────────┐
│ │
│ 勝兵衛、将監。実は多賀豊後守高忠次男 │
├良直 │
│ │
│ 新助。実は多賀豊後守高忠弟・良氏の子 │
├良政 │
├女子 村瀬伊豆室 │
├女子 箕浦作兵衛忠秀室 │
├女子 藤堂新助良政室 │
├女子 藤堂将監良直室 │
├女子 匹田勘左衛門常時室 │
└女子 丸毛兵庫助室 │
│
┌──────────────────────────┘
|
├女子 鈴木弥右衛門室 藤堂仁右衛門高刑の母
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├高則 永禄十二年勢州大河内にて戦死
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├高虎
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├女子 山岡長門直則室 後、渡辺長兵衛守室
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├高清 藤堂出雲家初代
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| 初代 徳、内匠助 室は伊予国大久保氏の娘
├正高──────────────────────────┐
| │
└女子 藤堂与三良連室 後、藤堂仁右衛門(二代)高経の室 │
│
┌────────────────────────────┘
| 二代 小刑部、内匠 初め高吉 室は生駒讃岐守正俊の娘
├高義──────────────────────────┐
| │
├高恒 安之丞 │
| │
└女 中小路助之進室 │
│
┌────────────────────────────┘
|
├女子 加茂社家梨木三位権大輔室
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├女子 箕浦八兵衛元種室
|
| 三代 右兵衛、内匠 後、義重 室は藤堂玄蕃良次の娘
├高隆──────────────────────────┐
| │
├女子 伊丹勘左衛門直重室 │
| │
├高勝 十助 │
| │
│ 彦八郎(藤堂織部家初代)分知三百石 │
│ 室は宮部左衛門佐久連の娘 │
└高連───────────────────┐ │
| |
┌─────────────────────┘ │
| 彦八郎家二代、主馬、左門、衛士、木工介 │
├高儔 │
| 実は平井氏の子。登庸され二千百石 │
| │
├女子 白井佐左衛門昭胤室 │
├高忠 半蔵 内匠家を継ぎ七代となる。 │
├高多 半五郎、殿雄、左近、典膳、織部 │
├女子 山中兵助為側室 │
├女子 葛原半太夫威元室 │
├政恩 中川蔵人 │
├女子 藤堂勘解由氏庸室 │
├演次 沢田平太夫 │
└女子 実は高忠の娘 藤堂仁助維高室 │
│
┌────────────────────────────┘
| 四代 内匠 室は藤堂主膳吉廣の娘
└高充