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​高虎家臣 高虎の一族又は藤堂姓を下賜された者

【藤堂家信】

[磯崎氏](金七、式部)。父・磯崎刑部左衛門は近江浅井家の旧臣で、高虎と旧知であったことから、紀伊国粉河に高虎を頼った。家信は幼少より高虎に仕え、文禄元年、十六歳で朝鮮陣に従う。慶長元年、再度の朝鮮陣に従軍。同三年八月、三百石を給された。帰陣後、また二百石加増され五百石となる。同五年、関ヶ原陣に従い、同陣の功により五百石加増。同十四年、千五百石加増され秩禄二千五百石、また藤堂姓を許された。同十九年、大坂冬陣には右足軽大将、帰陣後、千石加増され三千五百石となる。翌元和元年の夏陣にも中軍足軽大将を務め、同陣に於いて隊としては首級十六を挙げ、自身も長宗我部士大将・吉田内匠らを討ち取る抜群の大功を挙げたが、吉田内匠に膝を斬られ重傷を負った。その為、陣後、摂津国有馬温泉で傷を癒し、その際、家康より薬師が下された。八月、戦功により千五百石加増。全快には至らなかったが、同年九月、辞去した渡辺勘兵衛に代って伊賀上野に赴き政務を執る。同年、二千石加秩され七千石となり、高一万三千石の侍組六十人を預かる。寛永十一年十月、渡辺数馬、荒木又右衛門ら四人を預かる。寛永十三年二月、死去。五十九歳。室は細井久助正勝の女。
 

【藤堂氏勝】

[長井氏](弥二郎、勘解由)。草創期の功臣で高禄の士であるが経歴は不明な部分が多い。天正十八年頃より高虎に仕える。文禄、慶長再役にも従い、慶長二年九月の海戦で武功を立て、その場で氏勝の働きを見ていた毛利高政が高虎に報じた為、加増され藤堂姓を許された。慶長五頃より始まった板島普請の惣奉行を勤め、同年、関ヶ原陣の功により加増、騎射隊の長となる。慶長十九年、大坂冬の陣には旗本前備、陣後、菅平右衛門切腹の検使を勤めた。同陣の功により千五百石加増され三千石。夏の陣にも同じく旗本前備となり、五月六日戦死。大坂戦没六将の一人。室は細井久助の女。氏勝の首を挙げたのは長宗我部主水であったが、その場で勘解由の子・小大夫氏紹に討ち取られた。
 

【藤堂景政】

(平介)。父は藤堂駿河守景久。平介の高祖父は高虎の曾祖父の兄である。文禄二年、新七郎良勝の肝煎で高虎に仕え二百石を給された。慶長の役に従い、慶長五年の関ヶ原陣の折には大坂屋敷に詰める。慶長十一年、死去。
 

【藤堂一之】

[伊藤氏](正十郎、兵庫)。伊藤弥兵衛の子。慶長十一年、父が召し抱えられた時、高虎の小姓に召し出される。同十九年の大坂冬の陣には小姓組に属し出陣、この頃、禄は七百石。翌元和元年の大坂夏の陣には赤母衣組、帰陣後、五百石加増され本知合わせて千五百石。また同年、藤堂姓を許され、名も改めて藤堂兵庫と称す。後、五百石加増され二千石。寛永十九年、病死。室は藤堂仁右衛門高刑の女。

【藤堂賢政】

[浅井氏](喜之介、紀伊介)。浅井越後守の子。近江・浅井氏の一族。実名は可政とも。父の盛政は秀吉に仕えたが後、高虎の食客となり、その縁で賢政は幼少より高虎の小姓となった。金春八郎安照、下間少進に能を習い、花崎左京より「道成寺三座無足之秘伝」を受けた。後、藤堂姓を許された。花崎左京と共に高虎の饗応の席で度々能を演じている。慶長十九年の大坂冬の陣には小姓組、翌元和元年の夏の陣には赤母衣組。度々加増され寛永七年には禄二千石となっている。後、父が席次の不満により出奔した為、喜之介も辞して加賀の前田利常に仕えた。室は藤堂孫八郎忠重の女。
 

【藤堂左京】

[花崎氏]実名不詳。慶長四年頃より仕え、高虎の小姓となる。金春八郎安照、下間少進に能を習うといわれ、駿府邸の高虎の饗応の席で度々能や猿楽を演じている。慶長十九年、大坂冬の陣には小姓組、翌年の夏の陣には赤母衣に属した。帰陣後、五百石加増され本知合わせて千五百石となり、同年、藤堂姓を許され藤堂左京と称す。寛永七年には禄三千石となり、高一万石の侍組を預かっている。後、罪あって切腹といわれるが不詳。


【藤堂重政】

(太郎左衛門)。父は藤堂讃岐守重高。よって高虎の父・虎高の従兄弟に当たる。天正七年(一説に十五年)より高虎に仕えた。慶長二年二月、朝鮮再役に従う。同年の七月十五日の海戦の模様を秀吉に伝える為、奉行衆、目付衆の書状を持って七月二十三日に現地を出港、八月二十一日に京都に到着し、秀吉に委細を報告した。秀吉は遠路早速渡海の上、報告した重政の労を褒め、大和包永の脇差と猩々緋の陣羽織を重政に与えた。また秀吉は高虎への感状を自ら重政に手渡し、暫く京都に逗留して休息をとる様命じた。重政が京都に逗留している間、高虎の手柄を知った諸大名からの祝儀の品が山と届けられた。下旬に京都を出発して高虎の元に戻り、秀吉の朱印状、家康、浅野長政、増田長盛らの書状を手渡した。以後は高虎の元にあって南原城攻撃等に従い、翌三年五月、高虎と共に帰朝した。同五年六月、関ヶ原陣の折には佐伯権之助と共に板島城の留守居を務めた。慶長九年、突然、禄と秀吉より拝領の刀、陣羽織を高虎に返上して隠居。この為、跡目が立てられ無かったという。また一説に重政は関ヶ原陣の折、高虎に強いて出陣を願い出たが許されず、これより高虎を恨んで出仕を止めてしまったため、願いの通り名跡を立てられなかったともいう。慶長十一年、死去、五十三歳。室は内堀伊予守の女。重政は伊予にて千三百石を領し、藤堂家家老の初めといわれる。

 

【藤堂高清】

(与右衛門、出雲守)。父は藤堂虎高、母は宮崎一郎左衛門の女。高虎の異母弟、正高の兄。天正十三年出生。慶長七年、十八歳の時、板島城中に於いて元服し、高虎の旧号・与右衛門と禄五千石と与力若干を与えられた。同十九年の大坂冬の陣には右中軍の士大将となり、翌元和元年の夏の陣には名張の留守居を命じられたが、与力六騎を従えて戦場に至り、高虎に参陣を請願した。高虎が激怒してこれを許さなかった為、後から来た弟・正高と共に五月六日、七日の合戦に無断で参加した。帰陣後、無断参陣の罪により勢州三ヶ野村に蟄居。元和五年、復官を許され、禄七千石を給されて伊賀上野城々代となる。寛永十七年八月十五日、死去。室は仙石権兵衛久秀の女。 

【藤堂高刑】

[鈴木氏](仁右衛門)。父は浅井長政の旧臣で鈴木弥右衛門、母は藤堂虎高の女。よって高虎の甥にあたる。仁右衛門の号は元服の時、大坂城で増田長盛の旧号を受けたものであるという。天正十三年より高虎に仕える。慶長二年、朝鮮再陣に十六歳で従う。慶長五年、関ヶ原陣に従い、大谷吉隆の臣・湯浅五助を討ち取り、家康より槍を与えられた。同年十一月、同陣の功により加増され禄は五千石となる。同十九年の大坂冬の陣には右先鋒の備頭、翌元和元年の大坂夏の陣には高虎に左先鋒を願い、隊士五十騎を指揮。五月六日、八尾表で戦死。大坂戦没六将の内の一人。高刑を討ち取ったのは長宗我部盛親の臣・松田与左衛門であった。

 

【藤堂高吉】

[丹羽氏](千丸、従五位下、宮内少輔)。父は丹羽長秀、母は杉若越後守の女。陸奥白川藩主・丹羽長重の実弟。天正十年、本能寺の変後、秀吉は丹羽長秀を味方陣営に引き入れる為、その三男・当時四歳の千丸(後の高吉)を異父弟・秀長の養子に貰い受けた。しかし同十六年、秀吉は秀長に鍋丸(三好武蔵守一路の子、後の中納言秀保)を改めて嗣子にするよう命じ、秀長がこれを承服しなかった為、秀吉が立腹、兄弟間の不和に発展しかけたところを、当時秀長の重臣であった高虎が直接、秀吉に千丸を養子にしたい旨言上したので秀吉は千丸を高虎の養子として下した。千丸は従五位下宮内少輔に叙任し、秀長より一万石を与えられて藤堂宮内少輔高吉と名を改めた。文禄元年、十四歳の時、高虎と共に朝鮮役に出陣。慶長元年、朝鮮再役に従う。慶長五年六月、質として江戸に置かれたが、家康の命により九月一日、江戸を発して美濃赤坂に在陣中の高虎の元に赴き、関ヶ原陣に参加。同九年十月、隣国の加藤家と家臣が騒動を起こし、その責任を取り豫州野村に蟄居。同十一年冬、帰参を許され今治城辺に於いて采地二万石。同十三年の高虎の勢伊転封の後も今治城主として残る。同十九年の大坂冬の陣には中軍大将となり家臣五十騎、雑兵八百人を率い、翌元和元年の夏の陣にも中軍大将となり家臣三十三騎を指揮。寛永十二年八月、幕府から伊勢に国替えを命じられた為、今治城を藤堂右京に引き渡し、大坂の町屋に逗留、今治領は藤堂右京から松平美作守定房に渡された。本来、高吉は所領二万石の大名であったが、この時、別格家臣の扱いで津藩に組み込まれ家臣扱いとなる。高吉は名張に着封後、陣屋を建設し町並を整えた。寛文十年七月十八日、死去。室は溝口伯耆守宣勝の女。

【藤堂忠重】

[今井氏](孫八郎)。今井忠氏の子。天正十七年、召し出され高虎の小姓となる。慶長三年、巨済島周辺の海戦に於ける功により、高虎より感状を受け、三百石を給される。同年、藤堂姓を許された。同五年十一月、関ヶ原陣の功により七百石加増され千石となり高虎より兼光の脇差しと頭巾を拝領した。同十三年八月、五百石加増され弓隊の騎将に命じられた。同十六年六月、死去。

【藤堂忠光】

[箕浦氏](作兵衛)。父は箕浦作兵衛忠秀、母は藤堂越後守忠高の女。箕浦氏は近江の豪族。父の忠秀は永禄十二年、伊勢国大河内城周辺で戦死。忠光はその次男で、高虎の従兄弟に当たる。初め寺西筑後守に仕えたが、天正十四年、紀伊国粉河に高虎を頼り、二百石を給された。同四年、宇和島入封の際に三百石加増され五百石となる。慶長元年、朝鮮再役陣に従い、同二年七月十五日の巨済島周辺の海戦で大功を挙げ、感状及び五百石の加増を与えられ千石となり藤堂姓を許された。同五年九月、関ヶ原陣に従い、十一月、同陣の功により五百石加増。同六年四月、高一万石の士隊三十騎を預けられ士大将となる。同十年、五百石加増され秩禄二千石。同十三年、伊賀附となる。同十九年、大坂冬陣には重病のため伊賀国上野城の留守居を務めていたが、十月十六日、死去。室は村井左馬允成綱の女。

【藤堂直廣】

[山岡氏](源右衛門、源助、号・休閑)。父は山岡長門直則、母は藤堂虎高の女。よって高虎の甥に当たる。藤堂長兵衛守胤の異父兄。幼少の時、父が死去した為、高虎の命により藤堂出雲高清の義子となる。慶長十三年、高清に従い上野に移る。同十四年、藤堂姓を許される。同年、質として江戸に赴いた。寛永七年十二月、五百石を給される。寛永九年、五百石加増か。後、段々加増され二千石となり、寛文九年、久居藩立藩の際、筆頭家老として同藩に転じる。延宝二年、致仕。

【藤堂正高】

(徳、内匠助)。父は藤堂源助虎高、母は宮崎一郎右衛門の女。高虎の異母弟、高清の弟。天正十六年紀州粉河にて出生。慶長元年、九歳の時、質として江戸に赴き、家康より内匠助と改めるよう命じられた。同四年、家康より下総国香取郡の内で三千石を給される。以後、江戸で秀忠の側附として仕えた。同十一年、高虎の子・高次が江戸の質となった為、国元へ帰る。慶長十九年の大坂冬の陣には右中軍の足軽大将、翌元和元年の夏の陣には伊賀上野の留守居を命じられたが、後、戦場に至り高虎に参陣を請願した。高虎がこれを許さなかった為、先に来て同じく叱責を受けていた兄の高清と共に無断で合戦に参加した。同年、帰陣後、罪を問われて高清とともに勢州三ヶ野村に蟄居。元和五年、許されて津に屋敷を与えられ、禄三千石を給された。先に家康より給されていた下総の知行は収公された。後、伊賀附に転じる。寛永六年六月二十七日、伊賀に於いて死去。室は予州・大久保氏の女。
 

【藤堂正綱】

[細井氏](主殿)。細井久助正勝の子。実名は正誠とも。慶長六年、父の死去時、僅か十二歳であったが、遺禄五百石を給される。同十九年、大坂冬の陣には黒母衣組に列したが、十二月十五日、切腹を命じられた堀 小伝次を庇って戦場を離脱し、津の妻子共々領国を去る。翌元和元年、大坂夏の陣に勘解由氏勝を頼んで陣を借り参戦。帰陣後、軍功を以て帰参を許され、五百石増しの二千石を給された。同三年十月、藤堂姓を許され田丸城代を命じられる。慶安三年、致仕。寛文四年二月、死去。七十五歳。室は藤堂采女元則の女。

【藤堂 宗】

[渡邉氏](弥作、掃部、内膳、号・定閑)。渡辺金六宗吉の弟。天正十年頃より兄と共に高虎に仕える。朝鮮両役に従う。慶長二年、朝鮮に於いて兄が戦死した為、その遺禄を継ぐ。同五年、関ヶ原陣に従う。同陣の功により加増され本知合わせて二千石となり、与力若干と鉄砲足軽二十五人を預かる。この頃、掃部と改称。同十六年、伊賀上野城二、三ノ丸普請の城築奉行を務める。同十九年、大坂冬の陣の折に士大将となり侍組十八騎を率いて左先鋒の相備、翌夏の陣にも左先鋒の相備となった。寛永十年、藤堂姓を許される。同十二年及び十六年の江戸城普請に従う。正保三年春、死去。

【藤堂元則】

[保田氏](左十郎、左助、采女、号・可休)。父は服部半蔵則直。伊賀国予野庄の領主で、千賀地谷に居を構えていたので千賀地半蔵とも称した。兄は幕臣・保田甚兵衛則宗。元則は伯父・保田栄西に養われたので保田氏を称し、伯父・兄と共に郡山城主・増田長盛に仕えた。慶長五年、増田家は没落。翌六年、板島に於いて高虎に謁し、千五百石を給された。同十年四月、二百五十石加増され都合千七百五十石となる。同十一年三月十一日、二百五十石加増され二千石となる。同年、兄と共に家康に謁し、家康より保田を改姓して藤堂にせよとの命があったので藤堂姓を称した。同十四年、丹波篠山城縄張普請、翌十五年、丹波亀山天守普請を勤める。大坂冬陣には旗本士大将となり鉄砲足軽、大小姓組を率いた。帰陣後、五百石加増され三千五百石。翌元和元年の夏陣にも旗本士大将を務め隊士三十二騎を率いた。帰陣後、戦功により千五百石加増、五千石となる。元和六年十二月八日、二千石加増され七千石となり、高一万三千石の隊士六十人を預かり、隊士共で二万石。寛永七年十一月二十八日、藩主・高次の襲封の際、江戸城に於いて他の老臣と共に将軍・家光に拝謁し御礼の品を献じた。同十七年七月、生駒家騒動による幕府公裁の席に派遣される。また同年、津城代となったが、八月に死去した出雲高清の後任として伊賀上野城代を命じられ、九月、領国に下り津丸ノ内の屋敷と久留島町の中屋敷を引き払い、十月に着任。慶安三年十月二十七日、保田外記を使者として致仕を願い許された。翌四年一月末日、国務を子・長門に譲り、致仕。茶料として米千俵を与えられた。万治三年五月二十四日、死去。室は佐伯権之助惟定の女。子孫は明治期まで概ね伊賀上野城代職を務めた。

【藤堂守胤】

[渡邉氏](将監、長兵衛、号・卜全)。生国、伊賀。父は渡辺長兵衛守、母は藤堂虎高の女。高虎の甥に当たる。藤堂源助直廣の異父弟。元和四年、父の死去時、僅か六歳であった為、遺禄四千石は収公され、蔵米五百石を給された。同時に父・守に仕えていた家士も西島八兵衛の取次により収公され直臣となる。寛永十二年三月、藩を辞去し近江国坂本の祖父・勘兵衛了の元に至る。以後、祖父と共にあった。同十四年、島原の乱に陣を借りて参戦。祖父の死後、寛永十九年、安藤右京進重長、板倉周防守重宗の肝煎により召し返されて千五百石を給され、母衣組に列した。同二十年、江戸詰となる。寛文六年、京極丹後守改易により、其の子、近江守を伊賀で預かることとなった為、これに随行して伊賀へ赴く。同八年二月六日、江戸代官町の火事焼跡の後片付を指揮する。同九年、高次隠居の節、江戸に供し、以後、その側にあって奉仕した。翌年、藤堂姓を許され鉄砲足軽三十人を預かる。延宝七年六月、伊賀に帰り致仕、卜全と称した。元禄四年七月十一日、死去。

【藤堂康成】

[服部氏](右京)。服部太夫康次の子。慶長十二年、藤堂姓を許され藤堂右京と称す。同十五年、勢伊転封の翌年、新知二千石を給される。同十六年、伊賀上野城二・三ノ丸普請の城築奉行を務める。同十九年の大坂冬の陣には中軍の足軽大将となり、帰陣後、軍功により千石加増され三千石となる。夏の陣にも中軍の足軽大将となる。陣後、高七千石の侍組、鉄砲足軽三十一人を預かり、隊士共で一万石、家老職を命じられる。寛永五年、大坂城普請に従事。同十二年四月、江戸城二ノ丸普請に従い、六月帰国。同十三年九月、死去。

【藤堂良勝】

(新七郎)。父は藤堂新助良政。母は藤堂越後守忠高(良隆)の女。よって高虎の従兄弟に当たる。高虎の父・虎高に養育され、天正五年、播磨国に於いて高虎に随身。同六年、摂津国神崎合戦、同九年の因幡国鳥取城攻撃、同十年の備中国高松城攻め、山崎合戦、天正十一年の賤ヶ岳合戦、越前国丸岡城攻撃、同十二年の小牧長久手合戦、同十三年の紀伊国雑賀陣など高虎の関与した合戦全てに従軍した。次いで同年の阿波国一宮木津城攻め、同十五年の九州征伐に従い、日向国目白の夜戦で大功を挙げ名を轟かせた。天正十八年、小田原陣に従い、三月晦日、伊豆国韮山城攻めに於いて、外郭鐘ノ丸に一番乗りをした。文禄四年、高虎が伊予に封ぜられた折に、一千石を給される。慶長の朝鮮再陣に従い、特に慶長二年七月十五日の巨済島周辺の海戦に於いて功を立てた。高虎は良勝に感状、黄金を与えこれを賞し、高虎の父・虎高も良勝に感状を与えている。同時に千石加増され二千石となる。慶長五年九月十五日、関ヶ原の合戦では、まだ合戦の始まらぬ内に石田三成の臣・大野喜兵衛と一騎打ちを行い、見事首級を挙げ高虎を喜ばせた。合戦開始後も大谷吉継の陣に突入し勇戦。十一月、関ヶ原陣の功により八千石の加増を与えられたが、新七郎はこれを辞し、渡辺内膳、梅原勝右衛門らの再三の説得にも関わらず固辞し続けたので、高虎は新七郎に数人の与力と鉄砲足軽百人を預け、加藤嘉明への押えとして灘の城代を命じた。同年、勢伊転封の際には大津にあって、富田家への領地引き渡しを勤める。同十四年八月二十八日、高虎よりこれまでの忠勇を賞し禄を十倍し二万石の采地を与える旨命じられたが、良勝はこの時も固辞し続け、高虎が声を荒げるに及んで漸く三千石の加増のみ受けた。慶長十八年十月、高虎は改易された富田信高の旧領を預かる事となり、良勝は伊予国板島城の城代を命じられ、板島に赴いてこれを守った。慶長十九年、大坂冬の陣に於いて高虎と渡辺勘兵衛は作戦上の意見相違から隙を生じ、十一月十四日、高虎は板島より良勝を呼び寄せることとした。良勝は十一月二十八日に板島を発し、十二月四日に到着。翌日より罷免された勘兵衛に代って左先鋒を命じられ、藤堂主膳、藤堂采女らは良勝の相備えとなった。帰陣後、元和元年三月、石田清兵衛を使者として、再度、禄を二万石とするとの命があったが、良勝はまたも辞退し続け、後ようやく「目出度く帰陣の後、受けとる」と言う事で夏の陣に出陣した。同陣では仁右衛門高刑が左先鋒を高虎に願い出た為、右先鋒となり、五月六日、若江・萓振付近に於いて木村重成勢と激戦を繰り広げ戦死。五十一歳。八尾常光寺に葬る。室は伊予国東多田、下木城々主・宇都宮石見守宣綱の女。大坂戦没六将の一人。

【藤堂良重】

(玄蕃)。良政の三男。慶長十年、兄の病死により十二歳で遺禄五千石を継ぐ。慶長十九年、大坂冬の陣には右先手の藤堂仁右衛門の相備となり家士五人、鉄砲足軽二十人、旗三本で出陣、翌年の大坂夏の陣にも右先鋒の藤堂新七郎の相備となった。同陣に於いて五月六日、戦死。二十四歳。大坂戦没六将の一人。室は矢倉大右衛門秀親の女。
 

【藤堂吉親】

[深井氏](主膳)。後の老中・松平伊豆守信綱の叔父に当たるとあるので、深井藤右衛門好秀の子か。深井氏は戦国期に上野国白井城主・長尾景晴の孫・景孝が武蔵国深井荘で出生し、その子が深井対馬守景吉と名乗ったのが初めといわれる。慶長六年、十六歳の時、松平右衛門佐、秋元但馬守の肝煎で高虎に仕えた。慶長十七年、藤堂姓を許される。慶長十九年の大坂冬の陣には赤母衣隊の備頭、翌元和元年の大坂夏の陣には旗本士大将として侍組三十四騎を率いた。同陣の功により千石加増され四千石。寛永七年、高虎の死去の際、剃髪して江戸寒松院に百日の間籠るという。慶安三年三月十一日、死去。六十五歳。

【藤堂良政】

[多賀氏](新助)。父は近江国松尾山城主・多賀良氏。母は菊池肥前守親政の女。天文三年、松尾山城落城により父の良氏は戦死。母の菊地氏は良政を連れて伯父の藤堂高忠の元に身を寄せた。後、良政は藤堂越後守忠高の義子となり藤堂新助を称した。永禄十二年八月九日、伊勢国大河内城周辺で戦死。三十八歳。室は藤堂忠高の女。
 

【藤堂良政】

(従五位下、喜左衛門、玄蕃頭、号・外庵)。実名は嘉清とも。藤堂将監良直の子。母は藤堂忠高の女。高虎の従兄弟に当たる。初め足利将軍家、次いで織田信長、丹羽長秀、豊臣秀吉に歴仕した。後、秀吉の命により関白秀次に属して一万六千石(一説に二万二千石)を領し、高五千石の与力を預かる。文禄四年、秀次事件に連座して秀吉より勘気を蒙り、高野山に上って剃髪し、外庵と号した。後に高虎が秀吉に免許を請願した為、高虎に預けられ五千石を給された。慶長五年六月、板島の留守居を命じられたが、高虎に出陣を請願し許される。岐阜城落城の後、家康への使者を務める。九月十五日、関ヶ原に於て石田三成の臣、島左近の子・新吉に討たれ戦死。四十二歳。室は久徳左近兵衛義時の女。

【藤堂良以】

(将監)。実名は嘉以とも。藤堂玄蕃良政の次男。慶長六年、家康に拝謁、その手に属す。同八年、祖父・良直が家康より隠居料として与えられていた二千石を給される。慶長十九年、大坂冬の陣には高虎に属して出陣、翌、元和元年の夏の陣には水野日向守勝成に属して出陣した。寛永五年七月二十四日、死去。四十歳。室は郡 主馬良列の女。後妻は松倉豊後守重正の女。子孫も幕府に仕えた。

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