藤堂高虎
藤堂高虎とその家臣
藤堂仁右衛門家
藤堂仁右衛門家の初代は高刑です。父は近江国の士である鈴木弥右衛門、母は高虎の姉なので高虎の甥に当たります。
通称である「仁右衛門」は、元服の時、大坂城内で増田長盛の旧称を授かったものであるといいます。文禄四年に高虎より藤堂姓を名乗るように命じられ、以降、同家は廃藩に至るまで藤堂仁右衛門を称します。
高刑は慶長二年、朝鮮再役に十六歳で従い、同年七月十五日の海戦や同八月の南原城攻略戦に従軍。同五年、関ケ原戦に従い、九月十五日、大谷刑部少輔吉隆の臣・湯浅五助隆貞を討ち取って武名を上げます。
湯浅五助を討ち取ったエピソードについては「高山公実録」所載の仁右衛門家由緒書等に詳しいのですが、司馬遼太郎の「関ヶ原」」がこれを上手く小説化しています。
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「わが首を、敵に渡すな」
病いに蝕まれた首を、敵将の首実検に供することは吉継としては堪えられない。
「五助、心得たか」
言いながら吉継は大あぐらをかき、腹のあたりをくつろげ、背後にまわった五助が刀を抜かぬまに吉継はすばやく腹を掻き切ってしまっていた。その首を五助は丁とおとし、陣羽織でつつみ、馬に飛び乗るや、戦場を西へ駈け、谷川のあたりまでくると、すでに敵の影が遠い。五助は安堵して堀から降りた。小石を掻きはらい、鎗をもって穴を堀り、やがて首をうずめおわったころ、
「五助ならずや」
という声が、頭上できこえた。ふりかえると、藤堂高虎の甥で藤堂家の侍犬将をつとめる藤堂仁右衛門である。
「やあ、仁右衛門、久しや」
五助は、槍をとって立ちあがった。仁右衛門とは、旧知なのである。
「年来の友垣とはいえ、戦場のならい、やむをえぬ」
五助も仁右衛門も言い、たがいに徒歩立ちになって槍を交した。湯浅五助はかねて大勇の名があり、ふだんならば仁右衛門の手にあう男ではない。が、すでに早朝からの戦闘で疲労しきっており、手足が十分に動かず、ともすれば槍の穂がさがり、ついに右の高股を突かれあおむけざまに倒れた。倒れながらもすかさず抜刀し、仁右衛門の槍を二つに切った。
同時に仁右衛門は槍をすてて抜刀し、飛びこんで五助に打ちかかろうとしたが、五助は倒れながら左手をあげ、
「勝負はすでにあった。申すことがある」
と言い、吉継の首の一件を打ちあけた。人に洩らしてくれるな、というのである。
「頼む」
というと、仁右衛門は兜の目庇を下げてうなずき、
「摩利支天にかけて違背なし。もらさぬ」
といった。五助はよろこび、槍を杖に立ちあがり、一応は構え、やがて形ばかり槍を一合させ、わざと仁右衝門に突き伏せられた。
あとで藤堂高虎はよろこび、わざわざ戦闘中その首を家康の本陣に送って見参に入れた。家康は、「湯浅五助といえば高名の勇士である。五助の首にまぎれなくばきっと兎唇である」
事実五助は兎唇であった。戦後、家康が大谷吉継の死体をさがさせたとき、
「いやいや、手がかりはある」と、家康は左右にいった。
「湯浅五助ほどの者が、主人刑部少輔の先途も見とどけずに死ぬはずがない。藤堂仁右衛門に五助の様子を語らせればめどがつくはずである」
といい、仁右衛門にきかせた。
仁右衛門は、
「存じておりまする」
と正直に言い、
「ただ、いかような刑罰をうけましょうとも申せませぬ。右の次第、五助がいまわのとき拙者に頼み申したるところ。約束でござれば、たとえ死を賜おうとも、申せませぬ」
と答えた。
家康は大いに笑い、さてさて律儀なる若者かな、と言い、それ以上は迫及せず、かえって仁右衛門に備前忠好の刀をあたえ、その功を賞した。
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この小説にある様に湯浅五助隆貞の首を高虎の実検に入れた処、高虎は甥の戦功を非常に喜び、高刑を同道して家康の本陣へ出向き隆貞を討ち取った旨を報告しましたが、家康は
「隆貞は名の知られた勇士で高刑の様な若者には容易に倒せる相手ではない。如何にして討ち取ったか」
と質問します。
この時、高刑は19歳でしたから家康の疑問はもっともではあります。
高刑は事実をありのままに回答しましたが、吉隆の首については触れませんでした。不審に思った家康が重ねて吉隆の首の行方を尋ねると、高刑は、
「確かに場所を知っております。しかし私は隆貞に他言しないと誓約致しました。例え上意重しと雖もそれを破ることはできません。その上で不届きな行為と思われるのであれば、甘んじて刑罰を受ける所存です」
と述べました。
家康はこれを聞いて「さてさて律儀な若者ではある。事実を述べれば高虎も抜群の功となるものを」と高笑いし、高刑に備前忠吉の刀と、隆貞に切られた槍の代わりにと傍にあった自らの槍を与えました。
陣後、家康は戦功のあった諸家の家臣を招いて食事を共にしましたが、高刑は激戦で頭部を斬り下げられ、その傷は目の下に迄達していたとあります。
同年十一月、高刑は関が原戦の戦功により加増され、一躍禄五千石の重臣に列し、藤堂新七郎良勝と共に高虎が片腕と頼む人物となります。
慶長十九年、大坂冬の陣に際しては、渡辺勘兵衛了が左先鋒を勤め、高刑が右先鋒を担いました。当時、高虎は家康より旧富田信高領である伊予国板島(宇和島)を預かっており、藤堂新七郎良勝は板島城代を勤めており不在でしたから、高刑が譜代筆頭としてこれを勤めることになったのです。
さらに高虎はこの輔佐として、浅井左馬助、菅 平右衛門、桑名弥次兵衛らを配置しました。浅井左馬助は元、加賀前田家で九千石の重臣だった人物で、菅 平右衛門はかつて豊臣水軍の一翼を担い、朝鮮役で活躍した元大名であり、桑名弥次兵衛一孝は長宗我部家で戦功を重ねたいずれも経験豊富な古強者です。
翌年の夏の陣には、当初藤堂新七郎良勝が左先鋒を担う予定でしたが、高刑は高虎に願い出てこれを勤めることになります。但しその編成は冬の陣に比べてかなり厚みを欠いていました。前年、相備を務めた菅 平右衛門は冬の陣後、大坂城の堀埋め立て作業を巡って高虎と口論に及び切腹を命じられ自尽。浅井左馬助はこれを不服として藤堂家を辞去してしまったからです。
さらに前年左先鋒を担った渡辺勘兵衛は、冬の陣での作戦上の対立から罷免され中軍に下がり、名目上は嫡子・渡辺長兵衛が指揮官となっていました。
運命の五月六日、高刑は長宗我部家の軍勢と先端を開き、乱戦の中、奮闘します。戦闘が進む中、高刑は馬を下りて槍で敵を2人まで突き伏せましたが、3人目の中内弥五左衛門と相打ちになり、ついに首を掻かれました。家士の菊池覚兵衛が駆けつけ、高刑の首を何とか取り返そうと周囲の敵と斬り結びますが、覚兵衛も戦うのに精一杯で、これは適いませんでした。覚兵衛だけでなく、主人の周囲を守って高刑の家士の多くがここで戦死しています。
せめて遺骸をと、堀 縫殿助や高刑与力の津野茂左衛門、津野又左衛門が突撃、なんとかこれを収容しました。
なお、この津野茂左衛門は名前から分かるとおり長宗我部家の旧臣でした。また高刑と相打ちになった中内弥五左衛門の子・藤九郎は、元和五年に父の戦功を以って高虎に召抱えられています
帰陣後、高虎は仁右衛門家の行末を慮ってか、高刑の娘を良勝の遺児・良精へ嫁がせる様に指示しました。家督は嫡子・高経が継ぎ、以後、幕末に至るまで仁右衛門家は津附の番頭を務める重臣として続き、幕末には十一代・高泰が総師となり、藩兵を率いて東征軍に加わり、箱館まで戦い抜いています。
鈴木弥右衛門
某────────────────────────┐
室は高虎の姉 │
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┌────────────────────────┘
| 初代 藤堂仁右衛門 五千石
└高刑────────────────────────┐
室は松永伊勢守娘 信長姪 │
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┌──────────────────────────┘
| 二代 藤堂六内、河内、仁右衛門 七千石
├高経────────────────────────┐
| 室は高虎の妹 │
| │
├女子 藤堂新七郎良精室 │
├女子 藤堂兵庫初代一之室 │
├女子 西島八兵衛之友室 │
| │
└清賢 伊勢願王寺 │
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┌──────────────────────────┘
├女子 藤堂采女二代元室
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| 三代 藤堂内蔵助、仁右衛門 五千五百石
├高広
| 室は一身田門主堯秀娘
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├女子 藤堂主膳二代吉廣室
├女子 藤堂長兵衛二代守胤室
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| 藤堂小源太、惣左衛門、外記(藤堂外記家初代) 分知千五百石 二代 兵蔵
├高一────────────────────────────良充
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├女子 藤堂出雲二代高英後室
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├清澄
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| 西島八兵衛之友の養子 二代西島八兵衛
├之継
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| 権十郎、儀左衛門
├高仲
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├女子 桑名弥次兵衛三代一次室
└女子 藤堂彦兵衛二代光利室