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​高虎家臣 氏名 は~ほ 迄

【服部少助】
諱不明。元、池田伊予守秀氏臣。慶長四年、保田甚兵衛の肝煎により召し抱えられ三百石を給される。翌五年、関ヶ原陣には板島に残り、人質を要求した西軍の兵と海上に於いて戦い、陣後その功により五十石加増され都合三百石となる。大坂両陣には藤堂新七郎組に属した。

【服部康次】
(大夫)。後の藤堂右京康成の父。天正五年、紀州粉川に於いて高虎に召し出される。紀州一揆平定に功有り。朝鮮の役に従い、帰国の際、殿を勤めたという。慶長五年、関ヶ原陣に従う。後、今治に於いて病死。

【服部保久】
(竹助)。天正九年頃より高虎に仕える。同十年、備中国高松城攻め、山崎合戦に従う。天正十一年の但馬国平定、賤ヶ岳合戦に従い、陣後百石を給される。続く伊勢松島城攻め、同十二年の小牧長久手合戦、同十三年の紀伊国雑賀陣、四国戦、同十五年の九州征伐など、高虎に随身して各地を転戦した。文禄元年三月、朝鮮陣に従軍、釜山戦で武功を立て高虎の父・虎高より連名の感状を受けている。文禄三年、高虎が宇和島に入封した際、千石を給されたが、保久はこれを辞退したらしい。慶長二年、朝鮮再役に従う。同五年、関ヶ原陣に従軍し、首級を挙げる。同十一年、高虎が備中二万石を加増された際、藤堂内膳と共にその支配を命じられた。大坂両陣には藤堂主膳吉親隊下に属す。

【疋田常方】
(勘左衛門)。父は疋田勘左衛門常時、母は藤堂越後守の六女。よって高虎の従兄弟に当たる。天正十四年、紀州粉河にて召し出される。文禄の役に従う。慶長三年、死去。

【彦坂嘉兵衛】
諱不明。往年、家康に仕え戦功をあげ、後に安藤直次と共に紀伊頼宣に属して五千余石を領した彦坂九兵衛光正の子という。元和八年、大僧正天海と徳川頼宣の肝煎により召し抱えられ、六百石を給されて母衣組に列する。

【日野将監】
諱不明。元、出羽国・最上家の臣。慶長十九年、最上家親の清水氏攻撃の際には、その主将を勤め、攻略後は清水城代となった。元和八年秋、最上義俊の改易により幕府から高虎に預けられ、百人扶持を給され津に於いて屋敷を与えられた。二代藩主・高次の時、千五百石を給され伊賀附母衣組に属す。

【平松正允】
(喜蔵)。慶長三年、渡辺内膳の取次により召し出され百石を給された。慶長五年の関ヶ原陣には板島に留守居を命じられる。この時、板島領下に一揆が起こり制圧に向かった力石治兵衛は射殺されてしまったが、正允は治兵衛を撃った敵に駆け寄ってこれを討ち取った。この功により同年十一月、五十石加増される。慶長十六年春から伊賀上野城天守閣普請の作事奉行を務めた。同十七年九月二日、伊州大風雨の折、天守閣の倒壊を防ごうと普請場で指揮していたが及ばず、天守閣が倒壊し事故死。

【戸波親清】
(十兵衛、又兵衛、与三兵衛)。父は元、土佐国戸波城主・戸波右兵衛親武。親武は長宗我部元親の従兄弟で長宗我部右兵衛とも称した。親清は元親・盛親の二代に歴仕。慶長二年、元親に従い十七歳で朝鮮役に従う。慶長五年、長宗我部盛親に従い関ヶ原戦に参加、敗戦後は盛親を守り堺まで引き上げた。同十九年、盛親の大坂入城に従い大坂城に入り、夏の陣に於いては高虎の軍勢と激戦を交え、敗北後、盛親を守って城州八幡山まで潜行。寛永三年、関白・近衛信尋の推挙により高虎に仕え、禄百五十石、伊賀附式部組となる。後、荒木又右衛門が仇討の際、刀を折ったことを批判し、これを聞いた又右衛門は親清に師事したとされる。

【細井正勝】
(久助)。紀州粉河にて召し出される。後、伊予塩泉にて奉行役を務め五百石を給される。慶長五年の関ヶ原戦には板島に留守居。その時、領下に発生した一揆を土豪の栗田宮内の力を借りて鎮圧した。同六年、死去。

【堀田正行】
(蔵人、角左衛門、弥五左衛門、周防)。父は堀田新右衛門正秀。母は浅野久蔵長一の女か。元、福島正則臣。後の幕府老中・堀田図書正盛の伯父。元和七年、稲葉内匠頭正通の肝煎と藤堂左京の取次により召し抱えられ千石を給される。室は堀田図書頭勝喜の女。後に出家して上敬上人と称したという。

【堀 信家】
(伊織)。元、堀 忠俊臣。堀権之助重信の子で、堀左衛門督秀政の従兄弟。慶長十五年、堀家改易により堀 丹後守直寄(一説に生駒正俊)の肝煎で召し抱えられ千石を給されて母衣組に列する。同十九年の大坂冬陣には小姓組頭、翌年の夏の陣には黒母衣組の母衣頭を務め大功をあげ、陣後五百石加増され千五百石。寛永十一年六月、将軍への献上物を彦根に輸送する際、その使節を務めた。同十二年一月、死去。室は堀 秀政の妹。

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