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米村家

 米村流砲術の開祖である米村勘左衛門一長を初代とする。米村流砲術は幕末まで連綿と藩に伝承された。


米村氏は、「米村家系図」によると冒頭に米村但馬守 京都所司代とあるので三好長慶に仕えた米村但馬守の一族かも知れない。「奈良宇智郡史」にも名がある。


 高虎に仕える以前は増田長盛の臣で増田家では知行七百石取りであった。慶長六年、藤堂内膳宗の取次によって高虎に召し抱えられて七百石を給された。吉田流弓術で名高い吉田六左衛門元直ですら高虎に召抱え当初は客分とはいえ六百石であったから、一長も当事それなりに名前が知られていたものと思われる。

 慶長十九年、大坂冬の陣に従軍、その際、石火矢で大坂城内に立つ旗指物を一撃で堀へ撃ち落とし、高虎より賞賛された。これは将軍・秀忠の耳にも入ったという。翌年の夏の陣には津に留守居した。息子達が従軍していたし、既に老境にあったものと思われるが、夏の陣後の元和九年八月、大坂城再建の折には、吉田六左衛門元直と共に塀の狭間の切り開きを指導した。

元和和六年七月十七日秀忠先ヅ二之丸西北東三方面ノ矢倉多門造営ノ工事ヲ起シ元和八年六月ヨリ
北ノ外曲輪ノ倉庫造営ノ工事ニ着手シ寛永元年十二月ヨリ家光更ニ二之丸ノ西之丸ニハ倉庫ヲ
設置シ本丸ニハ殿館其他ヲ営建スヘキ準備ヲ爲シ寛永三年正月ヲ以テ本丸ノ矢倉多門殿館及ヒ
天主矢倉等造営ノ工事ヲ起シ寛永五年七月以降二之丸南曲輪ノ矢倉并ニ大手玉造ノ諸大門等
造営ノ工事テ挙行ス 凡ソ此造営工事ハ石垣修築ノ工事ト終始シ寛永六七年ノ頃ニ至リテ大成
シタル者ナルニ似タリ 前後造営ノ事與カリタル者左ノ如シ

矢倉多門殿館天主矢倉造営奉行ハ小堀遠江守政一號宗甫 京材木買入方ハ大坂町奉行島田越前守直時
久貝因幡守正俊 倉庫構造奉行ハ大番富永喜左衙門正義 横地勘之丞吉次 作事奉行ハ五味金右衛門豊直
喜多見五郎左衛門勝忠以上
七人ニ係ル引用書ハ後段本文中ニ載ス

矢倉多門高塀等ノ狭間ノ切開キ方ハ藤堂和泉守高虎ノ家士吉田六左衛門元直米村勘左衛門一長ナリ
元直ハ弓術一長ハ砲術ノ達人ニテ夙ニ将軍秀忠ニ知ラレタルニ因リ特ニ此狭間切開キヲ命セラレタル者ナリ

「大坂城御再造覺書」
御城の塀矢倉多門等之狭間は和泉守家來吉田六左衛門元直米村勘左衛門一長に爲切候様にとの上意に而則両人へ申付爲切申候事

 六左衡門ハ雪荷斎重勝之子ニテ弓術ハ父ニ不劣者ニ御座候以前大和大納言秀長卿方ニ罷在和泉守旧識之者ニ御座候ニ付後ニ當家ヘ召抱伜権平元次共合而八百石宛行家中之者へ弓術指南爲仕候
 両人大坂表五月六日七日両日働有之候雪荷父子射術相勝候義ハ將軍家ニモ兼而御存知被遊候ニ付
寛永年中和泉守蒙仰候而六左衛門江戸ニ呼下シ射芸奉入上覧御感有之御小袖黄金等拝領仕候
 且又御側衆へ巻藁前指南仕候様被仰付毎度江戸御城ヘ罷出候

 勘左衝門ハ鉋術精錬之者ニ而以前増田右衛門尉長盛方ニ罷在関ケ原以後當家召抱知行七百石遣シ鐵砲組預ケ申候大坂冬御陣之節和泉守申付城方ニ立有候茜之吹貫之旗ヲ石火矢ニ而爲打候處手際ヨク打切堀ヘ落シ申候
 其砌尾張宰相様御見及被成殊外御感稱被成下其段台徳院様之上聞ニ達シ蒙抑候て家傳之薬方書差上申候
右之次第を以此度狭間切之御用も両人へ被仰付候由ニ御座候

 一長には子が4人あり、弥五兵衛一忠、安左衛門一玄、理右衛門一次、女子(小森伝兵衛の母)であるが、いずれも優秀であったらしく、一忠、一玄は大坂陣にも従軍しそれぞれ功を立て高禄を食んでいる。


 但し米村流砲術の後継者となったのは三男の一次であった。以下、勘四郎一隆(後、大右衛門)、大右衛門一益と長男が継承し、
孝譲公御代分限帳(1742)を見ると米村家は5家を数える。

武具奉行
四百石  米村大右衛門

藤堂半蔵組
五百石  米村安左衛門

大小姓
二百石  米村半之進

宗旨奉行
五百石  米村弥五兵衛

鉄砲役


二百五十石 米村藤左衛門


また、幕末の分限役付帳によると

 

小納戸
四百三捨石 米村守衛

城和郡奉行
三百五捨石 米村半之進

鉄砲役
弐百五捨石 米村嘉平治

靖海流方 米村嘉平治

靖海流鉄砲役
三百五拾石 米村大右衛門

壮士粗 組頭席大小姓格
米村角次郎

となっている。

 靖海流というのは高島秋帆の流れを汲む西洋砲術であり、米村家は砲術専門家としての技術を買われてか、時代の趨勢に合わせて西洋砲術にシフトしたものと思われる。

 また先日、福澤諭吉の本を見ていたら偶然、面白い記事を発見した。

「福翁自伝」に福澤諭吉が、安政三(1856)年、中津に帰郷中、家老・奥平壱岐の所蔵するオランダ語の築城書を盗写し、翌年緒方洪庵を頼った際、緒方から生活費を与える名目として同書を翻訳したという有名な話が出てくる。

 この翻訳書は、3年後、福澤の熟生である米村鉄二郎の帰国に際して贈られるのだが、この鉄二郎は、上記米村大右衛門家の人で、津城下玉置町に住んだ三百八十石取の津藩士である。

 文政年間の画人で米村酔翁という人が居るが同じく、上記米村家の人だろう。

 手元にある米村家系図は江戸初期迄のものなので、米村流砲術がどんなものだったのか、また代々の経歴詳細が分からないのが残念だが、初代・勘左衛門一長以来、藩内で隆盛した一族であることは間違いない。

 米村流砲術が伝承したのは津藩だけかと思っていたが古河藩にも伝わったらしい。

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