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高虎の従兄弟は明智三羽烏?

 2020年の大河ドラマは明智光秀だそうで、そういえばと思い出した。

 本能寺の変の際、境内に突入した光秀の家臣に安田作兵衛、箕浦大蔵、古川九兵衛という人物がいたことが、「常山紀談」や「翁草」にある。

「翁草」「天野源右衛門の事」

「本能寺にて信長公御生害の時、塀重門より御座の間の大庭へ乱れ入り候は明智が家士 箕浦大蔵丞、古川九兵衛、安田作兵衛なり。信長公は白き単物を召し始めは弓にて防ぎ玉ひしが、弦切れたる故、鎗を召されしに地紅の帷子著たる年廿七八計の女中、十文字の鎗の鞘をはづし持ち來る、夫れを御取り有りて廣庭へ飛び下り給ひ、三人の者と鎗にて暫く御迫合ひ、そこを引き取り、座敷へ入らせ給ふに、未だ座敷には燭臺消え残り、其の燈の光に信長公の影障子に映りけるを、安田作兵衛穂長の鎗にて障子越に突く、其の鎗信長公の右の脇腹を刺して深疵なれば叶はせられず、寝殿に入りて自害し玉ふ。その後数年を経て安田作兵衛、天野源右衛門と改名し、安田事信長公を弑せし者故、秀吉天下に合して探さしめ玉ふに依り改名し世を忍ぶと云ふ 立花左近将監に奉公し、箕浦大蔵は浅野幸長へ呼び出され、京都にて天野源右衛門旅宿に居る處へ古川九兵衛尋ね來り、久々にて対面し、互に昔を語り、其の座へ箕浦も図らず訪ふ、三人打笑ひ、此手合は本能寺以來の参會なり、是れは珍ら敷き事なりとて、亭主源右衛門さまざま馳走す」

 「翁草」は、寛政3年(1791年)に神沢杜口が著した随筆、「常山紀談」は湯浅常山が元文4年(1739年)に著したものだから、何らかの典拠があった筈だが、分からない。

 また、この三人を「明智三羽烏」と称するが、これは江戸末期から明治にかけて作られた講談による創作と思われる。

 「翁草」「常山紀談」によると本能寺の変の際、光秀の臣 安田作兵衛、箕浦大蔵、古川九兵衛は寺内に突入し信長の居室近くの庭で戦った。

 この一人である箕浦大蔵は、「浅野幸長へ呼び出され」とある。

 浅野家の記録である「芸藩輯要: 附・藩士家系名鑑」を調べると「舊臣録」に「長政公へ相勤家筋」として浅野家が甲斐国に封ぜられた時期に仕官した家として「箕浦大蔵忠重」とあって明治末までこの家が続いていたこと、明治末~大正の頃の当主は「箕浦萬之助」であることが記載されている。

 さて本題であるが、この箕浦大蔵忠重は、津藩祖・高虎の従兄弟なのである。

 それは上記、広島藩の「芸藩輯要」と津藩・箕浦家の記録が一致することから分かる。

 高虎の祖父・忠高(良隆)には八人もの娘がいたが、内一人が箕浦作兵衛忠秀に嫁いだこと、その息子である箕浦作兵衛忠光、箕浦少内家次が高虎に仕えたことは、藤堂家の各種記録に明らかであって良く知られている。忠光は藤堂姓を与えられて藤堂作兵衛と称して重臣に列し、家次の子孫は分藩である久居藩の重臣となった。

 この両家に伝わる系図には以下のとおり出ている。

箕浦豊後守 江州柏原に居住す 義快────────┐ ┌─────────┘ │ 箕浦作兵衛尉  └忠秀───────┐ ┌─────────┘ │ 箕浦二郎左衛門 ├某 │ 福嶋に住 子孫彼地にあり │ 箕浦新八、大内蔵 ├忠重────────────────────────────┐ │  始め羽柴美濃守秀長卿に仕へ熊野を領知してその後、浅野弾正│ │  殿に仕へ甲州に住居 岐阜中納言秀信公合戦之時浅野幸長之手│ │  にて一番鎗を合せ仕合悪小高き所より落る 二番に狩野主膳と│ │  名乗突合首を取る 後感状に箕浦は一狩野は二之一と幸長公よ│ │  り感状下さる 子孫芸州廣嶌にこれあり          │ │                              │  │ 藤堂作兵衛(藤堂作兵衛家初代) 室は村井左馬介成綱の娘  │ ├忠光                            │  │                              │ ├女子 於六                         │ │                              │ │ 箕浦少内(箕浦少内家初代) 室は玉置対馬守娘       │ └家次                            │                                │ ┌──────────────────────────────┘ │ 箕浦式部   箕浦大内蔵  箕浦権兵衛 └某──────某──────某

 箕浦大蔵忠重が本能寺で戦ったとの記載は、藤堂藩士の箕浦家記録にはない。

 忠重の本能寺での戦いぶりは、「常山紀談」「翁草」の二随筆の他、少し後の時代の「改正三河後風土記」、これらを種本にした講談、「真書太閤記」等の読本にしか確認できない。

 浅野家臣の箕浦家が持つ記録が出典なのだろうか。どなたかご存知ならご教示下さい。

 明智三羽烏の一人、安田作兵衛についても藤堂家の記録に記事があるが、また別の機会に記載したい。

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