栃尾家
天正5年頃から、高虎は但馬国養父郡大家村にあって、秀長の命令で小代大膳、上月某ら国人と戦っていた。 高虎は、在地勢力と戦う中で大家村の土豪である栃尾加賀守祐善、居相肥前守らを口説いて味方に付け、平定に当たっていたが、その間は祐善の屋敷内に別宅を建てて滞在していた。また同9年の春、祐善の取持で没落した名族・一色左京太夫義直の娘を娶っている。 この後、高虎は、秀長に従って因幡、伯耆の戦いに赴くが、夫人の一色氏と結婚を機に近江から転居してきた高虎の父・虎高はその間、栃尾邸に滞在していた。 天正13年、高虎が紀伊国粉河城主となった際、一色氏は同城に移住することになったが、その際、祐善は一色氏に同行し、これを送り届けた。 なお高虎と正室・一色氏との間には子が生まれず、一色氏は元和元年八月津城にて死去し、久芳院と追号された。
上記の縁あって居相肥前守の次男・居相孫作政貞は、高虎に仕えたが、栃尾加賀守の子・源左衛門善次は高虎に仕えなかった。しかし元禄二年になって祐善から数えて5代目となる栃尾源左衛門善寅が、藤堂家に仕官を願い出た。善寅は、当初四十俵四人扶持を与えられたが、後に累進して京都留守居役、宝永7年からは古市奉行を長らく務めて後、89歳で没し、津・仏眼寺に葬られた。
加賀守 源左衛門 源三郎 号・受玄 源左衛門 号・易三 祐善─────善次─────吉重─────善富─────善寅
但馬国養父郡大屋に残った栃尾家本家も、藤堂家との所縁を大事にしていた様で、
・享和3年10月1日、但馬国養父郡大屋庄加保村・栃尾源左衛門が、藤堂家との由緒を以て
伊賀上野城を訪れ、熊皮一枚を献上したこと ・文化7年7月1日、但馬国養父郡・栃尾源太左衛門が、藩士・栃尾八郎左衛門を通して挨拶に
罷り出たいと希望したが、都度の挨拶は不要と却下されたこと
などが、藩の記録に残っている。
また慶應4年、津藩の山崎関門守衛に当たり、時の当主・栃尾八郎左衛門善則(禄五百石)は、家来2人、藩の従卒30人を率いてこれに従った。栃尾家は当初・津附の藩士であったが、後に伊賀附に転じた様で、伊賀にも墓がある。