稲住家 稲住新次郎
高虎の身代が大きくなるにつれ、軍役負担のため、藤堂家では積極的に浪人を採用した。 採用者が増えてくると一定の割合で変わった人物が混在してくる。さらにその中には扱いの
難しい人物も居て、面白いエピソードが幾つか残っている。
今回は「平尾留書」から、稲住新次郎を紹介する。
「赤阪の宿はやく御取切御纒上り候間、・・・其節合戦、初黒田甲斐守殿、田中兵部少輔殿、
高山様御進み御働き被成候。・・・此節高山様首五つ御自分に御かせき被成、稲住新次郎を
御呼被成、此首共預候間番いたし候得とて山の手へ御乗入被成候。
跡にて新次郎も疲にていねむりいたし候内、何者か右の首盗取申候ともしらす、寝入
居申処へ高山様御立戻り被成、新次郎預置候首は如何いたし候哉と荒々敷被仰候故目を
覚し見候へは、首無之候間、盗候由申上候ヘハ預け候物を失ひ候段うつけもの早々まとひ
候へと被仰候て又外へ御出被成候
新次郎跡にて、首五つ計なくなり候とて腹あしき大将なり いさまとひ可申と立あかり、
其日暮迄に甲首二つ平首三つ取御本陣へ参、高山様を白眼つけ御預りの首ハ平首五つ只今
まとひ候ハ甲首二つ平首三つとて御請取被成候へと御前へ投出し、扨々小気なる大名そや、
夫にてハ国持にハ御なり被成間敷と言散し陣屋へ帰り申候。跡にて高山様初並居候面々
今に始ぬ事なから聞ぬ気の男めと大に御笑讃被成候」
上記のとおり関ケ原戦の前哨戦において高虎は、取った敵の首の番を新次郎に任せた。
ところが新次郎は番の最中、居眠りしてしまう。
その後、帰陣した高虎は居眠り中の新次郎を叩き起こし
「預けた首をどうした!」
と詰問する。新次郎が慌てて見まわすと置いてあった首がない。致し方なく
「盗まれました」
と返答すると、高虎は
「預け物をなくすとは愚か者め!早々に何とかせんか!」
と叱責して出て行ってしまった。新次郎は、
「首が五つばかりなくなっただけで怒りおって意地の悪い大将め。こうなったら何とか
してやるわい!」
と立ち上がってそのまま戦場に出て、日暮れまでに敵と戦ってなんと大将首を2つ、
平侍首を3つ取って本陣に乗り込んだ。
その際、新次郎は、高虎をはったと睨み付けて
「殿から預かった首は平侍の首が5つ。只今拙者が帳尻を合わせんと渡すのは大将首
を2つ、平侍首3つの計5つである。御受取なされい!」
と高虎の前に首を投げ出し、剰え 「まったくケチ臭いことを言う大将だ。こんなことではとても国持大名にはなれまい」
と言い放って出て行った。
これを見て高虎と居並ぶ諸将は、 「今に始まったことではないが、全く鼻っ柱の強い奴め」 と大いに笑ったとのこと。
これは「平尾留書」という書による記載だが、稲住家の由緒書にも同様の記載がある。
但し上記の様に関ケ原戦の前哨戦における出来事ではなく、大坂夏の陣のこととなって
いる。宗国史の「功臣年表」によると慶長十三年の召出となっているから由緒書が正しい
のかも知れない。
いずれにしろ主君にこんな暴言を吐いて大丈夫なのかと思われるが、新次郎の硬骨漢
ぶりと、高虎の器の大きさを感じさせる話ではある。
この稲住家は、二代藩主・高次、三代藩主・高久襲封時の分限帳に見られず、
七代藩主・高朗在任時の分限帳に扶持取の藩士として登場し、十一代藩主・高猷在任時の
分限帳に「百九十石 稲住聞平」とあるから、当初無足人頭で軽輩であったものが、
段々と累進したのだろう。大正8年の記録によると「稲住張吉 明治神宮造営局属」
とあるから子孫は廃藩後まで続いたものと思われる。