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友田家 (友田左近右衛門)

藤堂家の友田家は友田左近右衛門吉家を家祖とする。史上名高い武人で慶長五年、宮部家改易により浪人となり、高虎に一万石という大禄を以て招かれた。

 左近右衛門 号・継林  吉家────────────────────────┐ ┌──────────────────────────┘ │ 左衛門佐、左近右衛門 ├吉直────────────────────────┐ │ 元和元年五月六日戦死               │ │                          │ │ 與市左衛門                    │ ├某                         │ │ 備後国福山城主 水野美作守家臣          │ │                          │ │ 内膳                       │ ├某                         │ │ 肥後熊本城主 細川越中守に仕へ禄七百石      │ │                          │ │ 喜左衛門                     │ └某 ───────────────────────┐│   百五十石後三百五十石              ││   慶安元年没                   ││  ┌────────────────────────┘│  │ 喜左衛門                    │  ├某                        │  │                         │  │ 孫右衛門                    │  └継遠                       │    後家絶                     │ ┌──────────────────────────┘ │  │ 助市 左近右衛門 ├吉重────────────────────────┐ │ 千石 室は藤堂新七郎良勝の娘           │ │                          │ │ 次郎右衛門                    │ └某 ───────────────────────┐│   新知百五十石 延宝五年没            ││                           ││  ┌────────────────────────┘│  │ 角左衛門                    │  └某                        │ ┌──────────────────────────┘ │ 左近右衛門 └吉豊────────────────────────┐   天和三年没                    │ ┌──────────────────────────┘ │ 山三郎  └吉治

(以下の系図は諸史料から作成したもの。詳細御存じの方はご教示下さい!)

[友田左近右衛門吉家の戦歴]

 吉家は近江出身で元、宮部善祥坊継潤の重臣である。  最初に吉家の名前が登場するのは、元亀三年十月、宮部氏が浅井氏の麾下から織田家に乗り換えた際である「浅井三代記」。吉家は人質として小谷城内にあった継潤の妻子を、上手く取り返したとされる。  さらに継潤は旗幟を明らかにするため国友城を攻めたが、この時、国友側の富岡藤太郎が継潤を狙撃、腿を撃ち抜かれて落馬し首を掻かれそうになったのを、吉家が駆け寄って富岡を付き退け、継潤を肩に背負い撤退した。

 天正九年、秀吉は二度目の鳥取城攻略に取り掛かり、これを包囲の上、落城せしめ、同城は継潤に付託されたが、この時秀吉の甥・御万(後の秀次)も養子として継潤に預けられていた。ところが翌年春、秀吉から於万を姫路に戻すように指示が下り、さらに継潤の重臣である田中久兵衛(後の吉政)か吉家のいずれかを、御万の補佐として差し出すようにとの命があった。内々秀吉は吉家の方を望んでいたのだが、継潤は吉家の才覚を惜しんで田中を差し出したという。「因幡民談記」

 天正十五年の九州征伐にも継潤に従って従軍し、四月十七日の根白坂の戦いでは、夜戦を仕掛けてきた島津勢に迅速に対処。吉家は板塀を打ち壊す敵軍を阻止せず、わざと引き込んで一斉に発砲し、これを混乱に陥らせた。その後、高虎をはじめ小早川・黒田の諸隊が来援、島津家を大敗に追い込んだ。[陰徳太平記]

 文禄三年には、継潤の普請奉行として伏見城の土木工事を担当。秀吉が工事現場を視察していると宮部家担当の石垣は殊の外出っ張って見栄えが悪かったため、秀吉から工事のやり直しを指示された。吉家は、

「継潤に報告してから工事をやり直します」

と返答した処、秀吉は、

「自分が直接指示しているのに、なぜ継潤への報告が必要なのか。指示に従って工事をやり直せ!」

と激怒したが、吉家は平然としてこれに従わず、大坂に飛脚を立てて継潤の許可を取った。

 大坂に帰城した秀吉は継潤を呼び出し、「その方の奉行、友田左近右衛門は憎き奴なり!」と憤然として事情を語ったので、継潤は友田は切腹か、軽くても罪科の沙汰があるだろうと青くなった。しかし秀吉は却って「友田は憎き奴なれど、貴殿は信頼できる家臣を持たれたな」と語ったとのことである。「関ケ原軍記大成」

 吉家は継潤の隠居後、嫡子の兵部少輔長煕に仕えた。

 慶長五年、会津征伐に長煕に従って出陣。その途中、西軍挙兵の報を受けて西上、鳴海まで来た処で、長煕は勧誘を受けて西軍への加担を決意。反対する家臣達を押し切って離脱してしまった。家臣らは致し方なく、かつて継潤の家臣であった田中吉政を頼ってその軍に加わったという。「因幡民談記」

 一説によるとこの時、吉家は宮部家ではなく南条元忠の下にあり、大津城攻略に加わって赤尾伊豆と槍を合わせたとあるが、どちらが正しいのかは不明。「関ケ原軍記大成」

 同年、吉家は宮部家改易により浪人となったが、高虎に一万石という大禄を以て招かれた。宮部家旧臣は、田中吉政の下に行く者が多かったが、吉家としてはかつて同輩であった吉政の下に行くのは憚られるという事情もあった様である。

 翌六年四月、吉家は藤堂宮内高吉と共に湯築城配置となった。これは高虎と仲の悪かった、加藤嘉明への備えのためであった。

[吉家と拝志騒動]  慶長九年七月十四日、高吉の家臣である星合忠兵衛を太郎兵衛という者が斬殺。さらに同僚の鷹匠・彦太夫という者の手引きで加藤領である拝志に逃走した。報告を受けた高吉は、彦太夫を尋問した上、翌十五日に家臣・淵本権右衛門とその弟である馬左衛門に彦太夫を案内者として拝志に逃走した太郎兵衛の捜索を命じた。

 拝志に着いたところで罪から逃れられないと理解していた彦太夫は、いきなり権右衛門に斬りかったが、却って抜き合わせた馬左衛門によって斬り倒された。  ところが拝志の町人はこれを見て、藤堂家の家臣が領内の者を斬殺したと誤解して大騒ぎになり、仕方なく淵本権右衛門、馬左衛門の両人は湯築城に引き返し、顛末を高吉に報告した。

 高吉は、事態を重く見て重臣の渡辺庄左衛門を加藤家に派遣し、事情説明に努めることとした。庄左衛門が拝志に入ると、拝志の町与力・五右衛門という者が藤堂家中の者と判断し、いきなり槍を突き出してきたので、庄左衛門は馬上で説明に努めたが、五右衛門は取り合わず、とうとう庄左衛門を突き殺してしまった。逃げ帰った下人からこの報告を聞いた高吉は激怒し、馬廻りの者を率いて拝志に向い、家臣の者も追々集まって進軍、加藤家の方でも人数を集めて睨み合いとなった。

 吉家は、事態が悪化の一方を辿りとうとう高吉が出馬したとの報告を受け、拝志に急行。高吉を説得してなんとか帰城させた。

 急報を受けた高虎は、これを幕府に訴え、加藤家からも同様に訴え出たため、公事となったが、裁定は「加藤家に非あり」となり、加藤家側の責任者である加藤内記は追放、渡辺庄左衛門を殺害した与力・五右衛門は切腹となった。

 勝訴側の高虎としても相手に非があるとはいえ幕府に遠慮せねばならず、高吉・吉家を謹慎とし、高吉は伊予国山中の野村に蟄居、吉家は京都に浪居となった。

[吉家の晩年]  慶長十二年、藤堂宮内高吉の謹慎処分が解けたことに伴い、吉家は高虎から呼び戻されたが、老年に及んだことを理由に辞退した。高虎もこれを許容し三千九百石の隠居料を与えた。また吉家の嫡子・左衛門佐吉直を召し出して千石を与えて母衣組の配属とした。

 吉家の没年は分かっていない。最近、ご教示頂いた吉家親子の記録によると、三男の内膳は、肥後熊本城主 細川越中守に仕へ禄七百石とあって「慶倫爰ニ卒ス」とあるが、嫡子・吉直は父の死後、左近右衛門と改称したとあり、大坂陣には左近右衛門として出陣しているから恐らく吉家が没したのは慶長十二年から十九年の間ではないかと思われる。

[その他] ・嫡子・吉直は、大坂夏の陣において戦死。友田家は伊賀付藩士として幕末まで続いた。

・松尾芭蕉の一門で俳人の友田角左衛門は、吉家の子孫である。

・「友田金平の鑓」と呼ばれる十文字鑓がある。「ある時は花の数には足らぬども散るには洩れぬ友田金平」と彫られていて幕府・弓矢鑓奉行所管の武具であった。 潔い歌が彫られており当時から友田金平が誰なのか調査がなされていた様である。未だに確証はないのだが、どうも吉家の親族らしい。というのは、享保七年の伊賀城代日記に公儀から友田家に問い合わせがあって由緒書を送ったとの記事にあるからである。

「新七郎組友田佐五右衛門弟久世隠岐守殿ニ相務居候 友田金平先祖之義 従公儀御尋有之候ニ付佐五右衛門ヘ尋ニ越候故由緒書遣候由申出候事」

 友田佐五右衛門を称したのは五代目・吉治ではないかと思われるが、この時、友田佐五右衛門と友田角左衛門は、間接的とはいえ「事前に藩庁に届出なく公儀に回答した」ということを咎められて差控を命じられている。

・太政大臣と相肩せし奇特者

 嘗て洪水の爲め、淀川の堤切れしことあり。其れが爲め人民の難儀するもの多し。秀吉之を聞きて、自ら見分に出でければ、諸侯、太夫、少身の士までも、皆隨従せり。

 秀吉親しく洪水の状を見て曰く、此儘にては、山城、大和の二箇國も湖水とならん。土俵何程あらば、防ぎ止むべきやと。地方の者曰く、四五萬俵も有らば防ぎ止むべしと。秀吉之を聞き、易き事なりとて、在々所々へ触れて俵を取寄せ、土俵を拵へさせけり。

 宮部善祥坊の臣に友田左近右衛門といふものあり。主の供して来れり。秀吉之を見て、あの者吾が合肩によからんとて呼び寄せ、自ら人夫同様に左近右衛門を合肩として土を運ぶ。

 是に於て諸侯太夫を始め、供奉の者は勿論、近里在郷の老若男女、僧侶に至るまで、我も我もと土を運び石を引きける故、半日斗りの間に、堤の切所悉く出来して、大水を防ぎ止めけり。「明良洪庵」

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