居相家 居相孫作政貞
高虎に最も初期から仕えた者の一人に、居相孫作政貞がいる。居相氏は但馬国人。
高虎と、この政貞を主人公とするエピソードは、「出世の白餅」として講談、浪曲になり、
遂には映画化もされた。
[昭和14年3月公開 主演:高虎=大谷日出夫、落合孫作(居相の誤り)=尾上栄五郎]
講談の内容は、こちらのウェブサイトに載っていたので引用させて頂いた。
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http://koudanfan.web.fc2.com/arasuji/03-05_shiromoti.htm
「日本の伝統芸能、講談の情報ページ 講談るうむ」所載
『出世の白餅(しゅっせのしろもち)』あらすじ
近江国の藤堂村に、百姓の源助の息子で与右衛門という者がいた。大変な父親思い。
農作業の合間には相撲や剣術の稽古をしていた。与右衛門十六歳の時父親は亡くなり、
全ての財産を売り払い村を出る。一応侍の格好をしてどこかの大名へ仕官しようと
するが戦功がなければそれも見つからない。与右衛門はとある大名家の玄関先で見た
衝立(ついたて)をヒントに高虎と名乗るようになる。
摂津国尼崎の小さな大名家で足軽になる。せっせと勉強をしている孫作という者と
仲良くなり兄弟同様の仲になる。その大名家を2人で出奔するが、すぐに無一文に
なり食べるものもない。伊勢国四日市、どうせなら一番の所へ行こうと本陣森田屋に
泊まる。腹が減ってしょうがない2人は玄関先の祝い用の餅を見てあれが食べたいと
言い出し、宿の主は白餅を枡に盛って2人に提供する。これには「枡枡(ますます)
御出世、末は白餅(城持ち)」の意味があり2人は感心する。翌朝2人は無一文で
あることを打ち明けるが、主は「御出世の暁にお支払いください」と告げ、さらに
永楽銭五貫文を差し出す。
2人は四日市を出立し関東、東北の松島へと進むが、相変わらず仕官する大名は
見つからない。藤堂がもし城持ち大名になったら、自分は馬の口取る別当になると
孫作は言い捨て、2人は喧嘩別れする。
十数年の歳月が経った。藤堂高虎は秀吉の目に留まり、とんとん拍子に出世して、
伊予今治八万石の城主となった。孫作は京極家に仕え家老上席三千石取りとなる。
ある時、居相(いあい)孫作は高虎の城を汚い身なりで訪ねる。久々に対面した
2人。孫作はかつて松島で約束した様、高虎の馬の口を取る別当になると告げる。
頑固に言い張る孫作に困ってしまった高虎。戦の時には馬の口取る別当にし、
戦でない平時は特別手当として五千石を取らせるということで決着した。
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さて、講談では高虎と兄弟分となっている居相孫作政貞であるが、無論この様な
縁で高虎の家臣となったのではない。
居相氏は元々、但馬国の土豪で、高虎が天正5年頃から、但馬国養父郡大家村に
あって、秀長の命令で小代大膳、上月某ら国人と戦っていた際に、味方に付いた
一人である。
「高山公実録」所載の居相孫作由緒書は、下記のとおりである。
「先祖居相肥前守父子三人共高山様御儀与右衛門と奉申御浪人の時節より御懇意に
被成下一揆御追討の刻御加勢等仕罷在 其後年号不知但州養父郡大屋において元祖
居相孫作儀親肥前守に御貰ひ被遊御家来に罷成候由・・・栃尾右門先祖栃尾源左衛門
討捕孫作源左衛門両人敵を追払ひ御方御利運に罷成候由 依之百九十五年以前天正
十午年正月御知行三百石の内にて但州において御知行三十石御自筆の御判物を元祖
孫作へ被下置于今所持仕候」
従って孫作は、高虎が既に羽柴秀長の家臣となった後に、高虎に仕えていて、
講談にある様に、浪人中の高虎に同行していないのだが、高禄を望まず生涯、
高虎の馬の口取りを務めたことは事実である。
同じく初期からの功臣・大木長右衛門の由緒書には、
「大和大納言様〔中納言の誤り〕御果被成候以後暫の内高野山へ御出被遊候節
孫作長右衛門御供仕禅門の体に罷成御一所に居申候の処秀吉公より伊予の国にて
七万石御拝領被遊候に付伊予の国へ御供仕罷越候て所々の浪人召抱候得と被仰付
方々へ罷越召抱御人数も多く罷成申候其節竹助孫作長右衛門千石宛被下其以後も
両度千石宛被為下候得共兎角拾人の働壱人にてハ難仕候得は百石つゝにて三十人
御召抱被遊候得とて侍中召抱差上申候」
とあって、高虎が伊予板島7万石に封じられた際、服部竹助、居相孫作、
大木長右衛門の3人は、千石ずつ宛て行われ、さらに千石ずつ与えるとの下命が
あったにもかかわらず、「10人の働きは1人ではできない。自分達への加増分は
新規雇用者に使うべきだ」とこれを断ったことが書かれている。
政貞は高虎が未だ小身時代から仕えて、高虎が務めた戦のほぼ全てに従い功を
立てたが、身を慎み、結局百五十石しか受け取らず、その生涯を一貫して高虎の
馬の口取りで終えた。没年等は不明である。
同家では「高虎の死去後、藩を去った」との口伝がある様だが、
「公室年譜略」には承応二年の記事があるから二代目までは在藩していた筈で
ある。但し、同家がその後、藩を去ったことは事実の様で、岡山藩士・居相家の
由緒書には「高祖父居相孫作儀藤堂和泉守度ニ而知行百五拾石被下罷有候
曽祖父居相三左衛門儀浪人ニ而罷有病死仕候」とある。
二代目以降の事績は全く不明で、由緒書等が発見されないと分からないが、
代々の実名は以下の様である。
居相肥前守 孫作 孫作 孫作
政煕───────政貞───────政勝───────政氏・・・
但馬国人 天和2年6月没 元禄10年12月没
子孫は、幕末になって再度、藩に召し出され明治45年の記録に
「海軍主計中監 居相政弘」とあって、この方は後に海軍主計大佐に栄進し、
退職後は華族会館書記長となられている。