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八尾 常光寺

以前から、大坂夏の陣で戦死した藤堂家臣が葬られた常光寺行きたいと思っていたのだが、

今回7年ぶりに大坂へ行く用事があり、時間を無理やり調整して赴いた。

境内に入って見まわしてもそれらしき墓碑がなかったので、お寺の方にお声がけした

処、女性の方がわざわざ出て来て下さって墓地と血天井の所在を案内して下さった。

元和元年五月六、七日の戦闘で藤堂家は侍大将の五人をはじめ、七十一人の死者を出した。

陪臣を含めればもっと多数であったろう。

戦死した者の内、侍大将は、

藤堂新七郎良勝、藤堂仁右衛門高刑、藤堂玄蕃良重、藤堂勘解由氏勝、桑名弥次兵衛一孝の

5人であるが、玄蕃良重のみ、遺骸は伊賀上野に送られたから、ここには埋葬されていない。

また、常光寺の大きい五輪塔は6基あり、なぜか赤母衣衆の山岡兵部重成が加わっている。

また各五輪塔は、宝暦14年(1764)に建てられたもので、それまでも墓碑があったものと

思われるが、この時に再建されたのであろう。

石枠の中、手前から藤堂玄蕃良重、藤堂新七郎良勝、藤堂仁右衛門高刑、山岡兵部重成、

藤堂勘解由氏勝、桑名弥次兵衛一孝の墓である。

墓碑正面には、戒名と経歴が刻まれているが、摩耗して判読は困難である。

左から、順に見ていくと、

要津宗玄とあるので藤堂玄蕃良重の墓である。右上部が剥落しているが、文字は結構読める。

左から2番目、藤堂新七郎良勝の墓である。良勝は高虎の股肱の臣で、武功多数なので碑面には初陣から戦死までの略歴がびっしり刻まれている。

左から3番目、戒名は杏林宗仁とあるので、藤堂仁右衛門高刑である。16歳で朝鮮役に従ったことから関ケ原の武功、大坂陣での戦死までが刻まれ、共に戦死した家士の名も挙げられている。

左から4番目、賛戻宗岡墓とあるから山岡兵部重成である。

重成は、侍大将ではなく、赤母衣衆なので、なぜ他の侍大将5人と並んで五輪塔が建てられているのか理由が不明である。なお重成は、嫡子がいなかったので、その戦死後、山岡家は断絶している。

さらに不可解なのが、大坂陣から約250年も経過し明治も近くなってからこの山岡家が再興されていることである。

「庁事類編」によると、

「文久四子年五月十二日  佐伯権之助殿次男鑄次郎 大坂戦死山岡兵部名跡 新知三百石被下 仁右衛門組被 仰付候段為知來候事」

とあって文久4年(1864)5月12日に佐伯権之助の次男である鑄次郎は、新たに300石を与えられ、大坂で戦死した山岡兵部の名跡を継いで家を興し、藤堂仁右衛門組への所属を命じられているのである。

なぜ幕末になって大坂陣で戦死した者の家が再興されたのか、また財政が厳しい時期にあって300石もの禄を新たに与えられて新家が興されたのか全く分からない。

左から5番目、前面が殆ど剥落してしまっていて、「由墓」しか読めない。

これは「白足宗由」とあった筈で、藤堂勘解由氏勝の墓である。

氏勝は大勇の士で鬼勘解由と呼ばれた。ご子孫の長井氏克氏は、明治期に衆議院議員、津市長となられた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BA%95%E6%B0%8F%E5%85%8B

左から6番目(右端)は、桑名弥次兵衛一孝の墓碑である。中央に「仰之宗弥」とあって碑面には、右上から「諱一孝称弥次兵衛姓桑名仕土佐」から始って、高虎に仕えて高七千石の侍大将となったこと、夏の陣に仁右衛門高刑と共に長宗我部家の軍勢と戦ったこと、槍折れ、刀折れるまで戦って倒れたこと、先に盛親から共に城方として戦う様招聘があったがこれを辞し、その戦死を以て新旧の主君の恩に報いたことが、六世の孫・一直の言葉で語られている。

その他の小さい墓碑の中に所縁のある高畑主税の墓碑を探したが、年月による摩耗が激しく、見い出せなかった。

最後に墓所に合掌して寺を辞した。

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