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明治維新後の剣術衰退とその復興

明治維新以後、古来から伝わる剣術は、廃刀令が出るに及んでほとんど廃滅の一途を辿った。しかしながら、明治9年12月に発生した伊勢暴動に士族を徴募せざるを得なかったことや、翌10年に勃発した西南の役において抜刀隊が活躍したことによって、廃れていた剣術や日本刀の価値が、再認識される様になった。


これらの暴動や戦役は、警備力としての士族の利用価値と、刀剣使用による武力を再認識する機会となった。即ち、治安維持や、騒乱・凶悪犯への対処には、巡査が持つ警棒では到底不足で、帯剣とそれを使用する技術が必要であるとの意見が高まったのである。


明治十五年十二月、従来、警部にのみ認められていた帯剣が、巡査にも許されて、翌十六年七月には、三重県下の巡査は、それまでの警棒に替えて帯剣することとなった。


 しかし上記の様に維新後、剣術訓練は行われなくなって久しく、日本刀が警察官の装備となるに伴って、再訓練が急務となったのである。

 訓練実施には、それを教える師役が必要で、旧藩にて剣術指南をしていた人物が、にわかに脚光を浴びて、厚遇される様になり、教えを受けた者同士の試合も盛んに行われる様になった。当時の伊勢新聞は、警察で頻繁に開催された試合稽古について、次の様に記載している。


「同十七年三月二十日、松坂署の撃剣場開演式に、岩村三重県令・下山大書記官・山県警部長らが臨場、津・山田・久居・相可などの署長は、高市( 津・久居)、藤井( 山田)、村上(松阪・相可) といった教師につき添われた各署の猛者三・四名ずつを引率して参列、津監獄署からも数名、総数約百名が一堂に参会して、午前九時から午後五時ごろまで、掛け声も勇ましく道場開きの大試合を開演した。」


 ここで津警察署の教師に任じている高市氏とは、津藩で新陰流剣術の助教をしていた高市弟三朝明氏と思われ、同氏は明治元年、伊賀から出征する藩兵の小隊長として撒兵隊を率い、翌年4月、北海道の江刺に上陸、函館戦争において力戦した人物である。


 また警察以外の民間に於いても、士族の武道稽古が奨励される様になった。明治15年末の伊勢新聞には次の様にある。

「撃剣会 当処にて津警察署監獄署等に、頻りに撃剣を事とせらるると聞き、何でも此機に乗じて我々も昔しなぢみの事なれば、益々撃剣を盛にせんと、岩田出口辺の士族等が申合せ、毎日曜日に出口学校の門前を借り受け、頻りにお面お小手と撃ち合を為らるる。其最も熱心なる人々は、林一、板垣信固、谷村秀、飯田百蔵、稲垣徳男、松田長昌、森 恒次郎、板垣武夫等の諸氏にて、槍術は服部保善氏が之が魁たりと云ふ(明15・12・24伊勢新聞)」


 板垣信固氏は、津藩では三百五十石取の藩士で、北辰一刀流剣術を修めた人物。慶応4年1月、桑名城接収時には、梶原左近景福率いる軍勢の一員として、小軍監を務めた。長男は、北海道開拓で知られる板垣贇夫氏である。また服部保善氏は、津藩では百九十石取りの藩士で、服部家は代々、本心鏡智流槍術の師家であった。


また、新聞広告を行い、武術振興を図った人達もいた。


撃剣広告

私義、幼年より居合、早業、棒術を研究せし、已に老年及びたれば其術行ひ難しと雖も、聊か国家の為めに其筋合を伝授せんと欲す。因て今般、松阪日野町八雲神社境内に設け伝授す。有志の諸君は、周旋人へ御申込可有之、撃剣道具所持なき方は貸渡可申候

明治十五年十月五日開業す

伝授人    旧津士族 玉置伝八

幹事    〃     玉置義雄

周旋人   〃 青木信人

〃     〃 角谷七郎次郎

〃     〃 安田利吉


 伝授人の玉置伝八和寄氏は、津藩では百石取りの藩士で、慶応4年、藤堂仁右衛門高泰に従って東征軍の一員として、奥州まで戦い抜いた人であった。

 広告には、「稽古道具がない人には貸します」とあって親切である。


 剣術の再興に努力したこの方々のご子孫は今でも続いているのだろうか。

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