伊賀市にある渡辺高之助重の石碑とその背景について
- 4 日前
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先日、久しぶりに伊賀市を訪れ、藩士家文書の閲覧を目的としつつ、以前から気になっていた渡辺高之助重(渡辺氏は諱が一文字のことが多い)の石碑を見てきました。この石碑は、渡辺高之助重の墓上に建てられたもので、彼の生涯とその忠義心を表しています。以下、渡辺家と石碑の由来を紹介します。

渡辺高之助重の生涯と家系
津藩士・渡辺高之助家は、重の父・吉が初めて高虎に仕えたのに始まり、一時を除いて伊賀附だった様で代々、高之助(介)を通称としました。吉は、天正十三年の紀州平定の際に羽柴秀長の家臣であった高虎に仕え、賤ヶ岳合戦、文禄の朝鮮役に従軍し、慶長二年に知行二百石を与えられました。
吉は早めに隠居を許された様で、その跡を継いだのが長男・重です。慶長五年の関ヶ原の戦いで戦功を挙げ、大坂の陣にも従軍しました。夏の陣では功績を立てたものの、隊将の藤堂新七郎良勝が戦死したために恩賞は得られませんでした。寛永七年、二代藩主・高次が襲封した際、二百石加増され四百石、徒士頭となり、その後も百石加増され伊賀方の普請奉行となります。寛永十一年十一月七日、伊賀上野城下鍵屋の辻において渡辺数馬と荒木又右衛門が、仇である河合又五郎らを討ち果たす事件があり、その際に重は現状報告のため伊賀から江戸藩邸への急使を務めました。同十六年、さらに百石加増され禄は六百石。承応元年八月二日、七十一歳で亡くなりました。
藤の木と石碑の由来
重は、生前、屋敷の庭で藤の木を丹精込めて育てていました。この藤の木は、元々江戸染井にあった藤堂家の下屋敷に植えてあった藤の木から採った種を育てたものでした。遡ればこの下屋敷の藤の木も高虎の故郷から来たもので、藤堂氏の由来のある木から分けたものでした。重は忠義に厚い人物で、庭に植えた藤の木を世話しながら、こう呼びかけていました。
「藤よ、藤よ。私はお前を見る度に亡き高虎公の姿を見る思いがする」
老いて後、重は臨終に当たって家族に「この主家所縁の藤の木を大切にし、決して切り倒してはならぬ」と言い残しました。遺族は、重の死後、この藤の木をその墓上に移して墓碑の代わりとし、重の思いが枯れぬ様に継いでいくことにしました。
天保四年に建立された石碑の背景
時代が下り、時代が下って天保初年、藩校の教師であった斎藤徳蔵正謙(後に藩校督学(校長)となる。号・拙堂)は、津附の加判奉行・渡辺伝(重から数えて八代目の子孫)からの手紙を受け取りました。そこにはこう書かれていました。
「私の先祖・重が大切にしていた藤の木を墓上に移植して墓碑の代わりとしていましたが、今や枯れて朽ちてしまいました。このまま放置して、先祖の思いや、主家由来の藤であったことが忘れ去られてしまうことを憂いています。そこで改めて石碑を建て、経緯を刻み、以て後世に残したいと望んでいます。ついてはその文章を作成頂けませんでしょうか」
正謙はこれを快諾して文章を編み、揮毫は正謙の門人で能書でもあった井野清左衛門好問が手掛けました。
石碑には以下のような文言が刻まれています。君とは重のことです。
「藤は植えられ、多くの人々がこれを支えた。そして藤は茂り、多くの人々をその陰で守った。嗚呼、藤よ、藤よ。遺墳を示す印とならん。君の心は石のごとく、死しても変わることはない。子孫は堕ちることなく恩恵に浴し、この石碑を以て再び君の志とする」

渡辺高之助家の菩提寺とその後
渡辺高之助家の菩提寺は伊賀市上野農人町にある妙華寺です。この寺は長曾我部盛親の遺臣、桑名弥次兵衛一孝が創建しました。渡辺家と桑名家は代々親族関係にありました。
渡辺高之助家は明治維新まで続きましたが、その後のご子孫の行方は不明です。石碑に刻まれた言葉の様に、ご子孫が今も健在であることを願うばかりです。








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