横浜家
- sasakigengo
- 1 日前
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今年の大河ドラマは「豊臣兄弟」とのことで、ネット上では秀吉の弟・秀長の記事が増え、秀長に関する書籍も出版されている。
藩祖・高虎の家臣には、かつて秀長に仕えた者達やその子孫が幾人か存在し、高虎が大和豊臣家の重臣だったときに縁を持った様である。
内、横浜家を見てみる。
横浜氏は、藤堂家臣の横浜家系図に拠れば近江国高島郡本荘村横江浜の出身である。豊臣秀長の家臣として横浜一庵、横浜民部少輔茂勝が知られているが、二人は兄弟で、豊臣秀長に仕えた。
一庵の諱は不明、茂勝は「額安寺古文書」に含まれている「横浜民部書状」にあるから正しいと思われるが、「半井家先祖書」には正勝、藤堂藩士・横浜家の系図には正行とあって一致しない。
「半井家先祖書」は一庵と茂勝を同一人物としていて信用できないが、藤堂家臣の横浜家は一族皆、代々諱に「正」を使っている処を見ると、改名したのかもしれない。
一庵は、文禄5年閏7月の伏見大地震の際に横死。茂勝は、秀吉に仕えて播磨国の内で一万七千石を領したが、慶長五年の関ケ原戦で西軍に属したため、改易された。その後の行方は分からないものの「筑後国において没」とあり、長男、四男は当初、田中忠政に仕えたとあるから、改易後は、同じ近江出身者で豊臣大名の田中吉政を頼ったものと思われる。
以下、藤堂高虎に仕えた横浜家の記録による。
┌一庵 良慶法印
├女 小堀正次室
└正行 民部少輔 ────────────────────────────┐
│
┌────────────────────────────────────┘
│
│ 田中左兵衛、後、本姓に復し横浜半斎
├茂元 田中忠政に仕え、改易後、加藤忠広に仕えて二千石。加藤家改易後、生駒
│ 高俊に仕えて合力米六百俵。生駒家改易後、小堀遠州の肝煎で前田利常に
│ 仕えて三百俵五人扶持。正保三年、死去。子孫も前田家に仕えた。
│
├春良 山城国宇治郡下醍醐菩提寺住職
│
│ 内記
├正幸 慶長十三年、縁者の小堀遠江守政一の肝煎により高虎に召し抱えられ五百石
│ を給された。大坂両陣に従い、後、禄は二千石となる。寛文十一年十月死去。
│ 室は藤堂主膳吉親の娘(実は中村源左衛門重久の娘)
│
│ 左京、斎、助右衛門
├正昌 田中忠政に仕え、改易後の元和六年、小堀遠州の肝煎で高虎に召し抱えられ、
│ 千石を給された。明暦二年、死去。
│
├女 横浜清右衛門室
│
├女 井伊直孝臣 大久保新右衛門室
│
│ 長次郎
├正治 慶長十九年、召し出され三百石、早世。
│
│ 権三郎
└正成 寛永六年、兄長次郎の跡目百五十石襲禄、後、嗣子なく絶家。
茂勝の男子は、長男を除いていずれも全員、藤堂家に仕え、仕官の仲介は高虎の娘婿で茶人・小堀遠州として知られる小堀政一が行っている。これは政一が縁者だったからで、政一の義母(異母弟・正春の実母)は横浜一庵の妹であった。
また、高虎の室・松壽院(二代藩主・高次の実母)の姉は、一庵の妻であったから、横浜内記正幸ら兄弟は、二重に高虎の縁類となっている。
正幸は出仕後、二百石加増され七百石となり、慶長十九年、元和元年の大坂両陣に赤母衣組に属して従軍。戦功により元和元年五月、五百石加増され、十二月また七百石の加増を受けて禄は二千石に上り重臣に列した。
この様に急速に累進したのは、高虎の縁類だったためであろう。正幸の子孫も代々、重職を務め、明治維新に至った。元、御木本真珠店専務取締役の横浜禮吉氏は、横浜民部少輔のご子孫とあるので、この方が正幸のご子孫だろうか。
また正幸の弟・助右衛門正昌も、元和六年、高虎に千石で召し出されている。
幕末の分限帳には、正幸と正昌の子孫家を含む三家の記載があるから、残る一家はどちらかの分家と思われるが不明。






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