茨木理兵衛重謙
- sasakigengo
- 2025年12月14日
- 読了時間: 3分
「茨鬼-悪名奉行 茨木理兵衛」が気になっていたので、遅まきながら読んでみた。藤堂藩で寛政8年に実際に起こった一揆を題材に、藩政改革を主導した茨木理兵衛重謙(しげかね)を主人公として、当時の状況を著者が小説化されたものである。

一般論を述べるだけで何らの具体案を示さない藩の重臣達、調査データを元に論理的に計画を立てるが周囲の共感を得られない重謙、重謙に改革を一任するも彼の施策を強力に後押しできない藩主・藤堂高嶷等のもどかしい関係性が上手く表現されていたと思う。
茨木理兵衛重謙が主導した農政改革は寛政八年に大一揆を引き起こして失敗するが、小説としては、そこまでの間にやや中だるみの感があった。尤も、一揆に至るまでの経緯を述べないといけないので、これは致し方ない。
途中、私の先祖も登場し、その間抜けな発言から、理兵衛の義兄である奥田清十郎が、「取っ組み合いになって大喧嘩した」と述べているのに失笑してしまった。
個人的には第11章、一揆の発生により十五年後、重謙が幕臣・太田七左衛門に、述懐を述べる場面に共感を覚えた。
さて、この小説にある通り、茨木理兵衛重謙は、藩財政の悪化を憂い、一身をかけて改革を押し進めたことは史実であるが、結果として農民たちの怒りを買い、押し寄せた一揆勢に北南西から津城下は包囲されるに至り、藩では侍組を出動させて防備を固めるとともに、執政の責任者・加判奉行が乗り出して説諭に努める事態になった。
従って、昔の書籍には、重謙の経歴を網羅的に紹介しているものがない。俳人として知られた重謙の父・重光(俳号・素因)の紹介ばかりである。これは、重謙が郡奉行として治水や新田開発の功績がある一方で、農政改革失敗の咎があったからと思われる。しかしながら農政改革自体は藩主や重臣の承認の下で行われていた筈で、郡奉行の重謙が首謀者の様に評価されるのはおかしな話である。
小説でも藩主・高兌の問いに対して、重謙の部下が「あのときのおかしら(重謙)のふるまい、卑怯たること一切なし、藤堂家と国益を裏切りたること一度もなし。忠の一言に尽くる」と書かれているが、維新後の雑誌でも、「編者云。當時の騷動茨木氏の政略に原因すと雖も素これ私利を營む爲めになせしに非す。國家を懐ふの切なるより見込違ひにて斯の場合に到りし事ゆえ、天も之を照覽ありしか、後代に至りても枢要の役を勤め家富み榮えけり」とあって実の処では、地元における識者の評価は高かったのであろう。
重謙は、失政の咎を以て知行、役職及び屋敷を取り上げられ、家族と共に親族の百々家に同居の身となったが、後に藩を出奔して、諸国を流浪した。文化九年に呼び戻され、旧禄に復したものの、流浪中に病を得て、文化十三年四月五日に死去した。五十一歳。
なお小説では、重謙の妻は奥田清十郎の妹になっているが、実際は守屋氏の娘である。

三重県津市四天王寺にある重謙の墓碑。「籬芳」は重謙の俳号。






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