藤堂高虎の重臣達 AIによる肖像
- 6月7日
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最近、進化の著しい生成AIに、藤堂家の史料に記されている重臣たちの容貌や様子を入力して、肖像を作成してみた。長年、高虎の家臣達について調べている私のイメージに似た肖像が生成されてビックリ。
藤堂新七郎良勝(大坂夏の陣)

處々出陣いつとても先登仕、生涯場数十三度、別して朝鮮表閑山島に於いて、番船を乘取高名仕り、異國本朝に名を知られ申走武者に御座候。性得胄を着申候事嫌いにて、髻結候事も厭申候。右之通りそげ者に御座候故、甲胃も華美を不好申、其日之装束、皮包の具足の上に、紙子の羽織を着仕、白布のはち卷締め候。
「元和先鋒録」
藤堂仁右衛門高刑(関ケ原の戦い)

仁右衛門申候は、成程不存にては無之候へ共、一度五助へ申間敷と誓約仕上にて鑓仕候上仕留申候。只今上意重く候へはとて、武士を欠き可申哉、此上は不届と仁右衛門刑罪被仰付可被下候。
「平尾留書」
桑名弥次兵衛一孝(大坂夏の陣)

弥次兵衛槍をつき折、刀を抜打合候に刀も打落され、短刀を握りなから、近藤か槍に貫れ候。
「元和先鋒録」
桑名の首を取って盛親の一覧に備へけるに、忍びの緒を真結びにして、その端を切って捨てたりける。扨は討死と思ひ極めたるよな、不便の事なりと宣ひて、涙を流されける。
「土佐物語」
藤堂玄番良重(大坂夏の陣)

当年出陣前於津の城、古和泉守唐冠の胄を手つから玄蕃に附属仕、我等壮年の時分此胄を着し度々の合戦に一度もおくれを取る事なし、是を可譲き若者、其方ならては外になしと、様々懇に申聞候へは、玄蕃面目身に余りいかにもして勝れたる高名をなし、主人の徳に報可申と存入候儀に御座候。
「元和先鋒録」
藤堂勘解由氏勝(大坂夏の陣)

藤堂勘解由槍玉に上り候よし、具足に槍の跡二十二本、玉疵も有之候。其頃世上にても鬼勘解由と申候由、討死の節、無類の働き仕候。
「西島留書」
長曾我部は、番の者を近付け、去ぬる六日八尾合戰に、藤堂の家人討死の中に、藤堂勘解由一人威を奮ひ、其舉動人倫に過ぎたり。其勇敢を感じ、胃を取りて、某が家人に持たせ置きたり。夫を勘解由が子孫に傳へ、最期の形勢を知らせたしと申しけると云々。
「新東鑑」
渡辺勘兵衛了、渡辺長兵衛守(大坂夏の陣)

渡辺勘兵衛、前年於住吉表、不調法之儀に付先手取揚候へ共、元来心外の了見違に候故、強き咎も不申付、則、翌年出陣前には中備先手申付候へ共、断申候に付、藤堂宮内少輔中備隊将と仕、渡辺長兵衛相加り、勘兵衛儀は子息長兵衛に差添罷在候趣に御座候。
右へ准し何角すねたる儀共有之候へ共八尾にて二の見之軍、勘兵衛鼻取て長曾我部を喰留、平野追撃並翌七日合戦にも、首数多取候。
「元和先鋒録」
渡辺長兵衛守は大坂の役迄三千石也、長曾我部か手に向ひて働有首級を得たり、凱旋の後千石を加へて四千石となる、勘兵衛出奔の時、親に離れて御当家に残る、元和四年七月卒す、三十四才。
「楼下夜話」
佐伯権之助惟定(大坂夏の陣)

天王寺口ニて味方逃申候時、権之助様一人御こたへ被成候、皆々帰陳之仕合御吟味を和泉様被成候時、皆其陣之仕合は権之助様を証拠人に致され候。
「高畑理兵衛覚書」
此方御家中又者かち若党具足着込など着せ不申候事。着せ申したるは無御座候かと覚え申候。但 佐伯権之助ハかち武者十人に如何にも結構に鎧ひたるものを馬の傍に召連れ申候。其外御家中にかち若党など具足着せたるは覚え不申候。
「西島八兵衛覚書」










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