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内海家 内海流鍵槍術

津藩では有名な内海流鍵槍術を以て鳴る家である。近江国の出身で古屋喜左衛門の子である重次を初代とする。

 重次は、初め左門、後に六郎左衛門と称し、晩年には紹節と号した。蒲生家臣・中堀彦右衛門入道玄清に六尺柄の鍵槍を学んで一流を創始し、内海流と称した。中堀彦右衛門は、戸田清玄に学んだとあるから、中条流で著名な富田勢源と同一人物と思われるが不明である。

 初め蒲生氏郷の臣であったが、氏郷の死後に蒲生家は家中騒動のため大幅に減知転封となったことから浪人、三成に招かれてその臣となった。

 慶長五年の関ヶ原敗軍の折、落ち行く三成に随行しようとしたが、逃亡の妨げになると諭され、三成と別れて故郷の近江国日野に隠遁。同年、高虎は岡田将監を頼んで重次を招き五百石を給し鉄砲足軽三十人を預けて足軽大将とした。この時、姓を改めて内海と称する。

 同十九年、大坂冬の陣には右中軍の足軽大将となり、鉄砲足軽二十人を率いる。翌年の夏の陣には赤母衣組に所属し戦功を挙げ、陣後、三百石加増され八百石。同九年、二百石加増。さらに二代藩主・高次から特に五百石の加増があり禄は千五百石まで上った。重次がこの様な恩恵に浴したのは、藩主・高次にとって槍術の師であったからである。

 重次は当時、既に高名な立場であったらしく、紀州藩主・徳川頼宣に何度も招かれ教授、また薩摩藩主・島津家久も門人であったという。慶安元年十二月二十日死去した。

 内海家は重次の後も幕末まで藩の鍵鎗術師範を務めた。二代目の重行も鍵槍術に優れ、慶安二年、藩主・高次より将軍・家光への鑓術上覧を命じられ、門弟・澤田甚左衛門忠之を連れて江戸へ下向。同四年三月、鑓術を家光へ披露し、小袖三を拝領している。

 内海左門、六郎左衛門 号・紹節 重次─────────────────────────┐  慶安元年十二月卒                  │                            │ ┌──────────────────────────┘ │  二代 久兵衛、六郎左衛門 千石 ├重行────────────────────────┐ │  延宝七年七月卒                 │ │                          │ └女 野崎新平家清室                 │                            │ ┌──────────────────────────┘ │  三代 左門 号・三汲 └重直    宝永八年正月卒

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