神田家(高田氏)
慶長五、六年に高虎に仕えた家臣は、関ケ原戦によって改易された大名の旧臣が多いが、神田氏もその一であり、「カンダ」ではなく「コウダ」と読む。
元々は高田といい、出仕した際に高虎の諱を避けて氏を高田⇒神田に変えている。読みは現代に至るも「コウダ」の様である。
藩内にはいくつか神田家があるが、全て同族で、元は伊予国来島城主・来島右衛門一康親の家臣であった。記録が残っているのは、神田伝左衛門家から別家した市郎兵衛家のみで他の家は行方も記録の有無も分からないのは残念という他ない。
神田市郎兵衛家の記録には神田氏は来島康親の近親として諸々記述があるが、来島氏の系図にはそれらしき記述はないのでこの辺りは不明である。
但し神田氏(高田氏)が来島氏の重臣であったことはおそらく真実であろうと思う。慶長五年、来島康親が関ヶ原陣後除封され、家臣も離散したが、残留した者達の中に高田四右衛門という人物がおり、また翌年康親が家康から許さけて豊後森に入封したとき家老に「高田勘兵衛」なる人物がいて、藩士由緒書のなかには「高田、二神共重き家柄与相見申候」とある。
『久留島藩士由緒書』
また「河野分限録」には恵良城主・得居半右衛門尉通久の麾下として高田若狭守、高田三河守なる人物がおり、野間郡山内村内、重門城主に高田左衛門尉通成という人物が記載されている。これらの者も一族かも知れない。
来島康親が慶長五年、関ケ原戦で西軍に属して所領没収となった後、今治領主となった高虎に翌年召し抱えられた来島旧臣は神田市郎兵衛家の記録によると、
荻山宗兵衛 本庄新右衛門 川口新助 神田六右衛門 神田伝左衛門 神田与左衛門 神田喜左衛門 田宮七郎兵衛 田宮権兵衛 本庄左吉 池原仁兵衛 山下喜右衛門 山下孫市
の13家とされる。但し「公室年譜略」「宗国史」では名の見えない者がいたり、逆に萩田市助が欠けていたり、初期に絶えた家もあって13家が正しいかは分からない。
この時召し抱えとなった来島家旧臣を、藤堂家では俗に「来島衆」或いは「来島組」と称し、高虎はこれを一隊として須知主水定信に預けた。
慶長十三年、高虎が勢伊転封となった時、来島組の面々は、津城下の岩田川南側に屋敷地を与えられ、それ故に一帯は昭和時代まで「来島町(後に久留島町)」と呼ばれた。 今も三重県津市岩田に在る「円通寺」はこの時、来島衆が伊予国から移設した寺で、「洞津遺文」には、「元観音寺と云ふ 津観音にさし障る故今の寺号に改む 久留島衆西国より引き連れ来る 神田家大旦那也」とある。今も墓所があるのかは分からない。
さて上記のとおり、慶長六年に高虎に召し抱えられた神田氏は、
神田六右衛門通明
神田喜左衛門(通明子)
神田与左衛門通勝(通明子) 神田伝左衛門通定
の四家である。伝左衛門通定だけ他の神田家との繋がりが分かっていないが、いずれにしろ近い関係であろう。
神田市郎兵衛家の記録には当初、神田六右衛門通明が高虎に千石で招かれたが、一族十三家に分知を願ったとある。
神田伝左衛門家は、二代目の通政が死去した際、子の市郎兵衛正照が幼少であったため、通政の弟・通直が継ぎ、正照は長じて別家を興した。
正照から七代目の神田礼之進通成は、耕雲と号し、画人として知られる。また剣は若山流皆伝、自得流砲術を修め、学は小谷巣松、服部竹塢に学び、齋藤拙堂、中内樸堂にも師事した。
元治元年七月、京都守衛のための伊賀兵派遣に従い、慶應元年四月、山崎関門守備中の藩兵に加わり、同四年一月の山崎関門における戦闘にも加わっていた様である。
若年の頃から古今の名画を模写、生涯の内に三千枚を超える模写を行い画法を確立。晩年は同じく画業に熱心だった藩主・藤堂高猷の寵を得た。明治十八年には私立南画学援設立、同二十一年五月死去した。
越智姓 高田六右衛門 改神田 通明 ───────────────────────┐ 寛永三年致仕 同二十年卒 │ │ ┌────────────────────────┘ ├女子 通當母 │ │ 喜左衛門 ├某 ──────────────────────┐ │ 寛永十年卒 │ │ │ │ 茂右衛門 │ ├通當───────────────────┐ │ │ 実は通定の孫 │ │ │ ┌──────────────────┘ │ │ │ │ │ ├女子 神田与左衛門室 │ │ │ │ │ │ 作右衛門 実は渡辺高之介次男 │ │ ├通深 │ │ │ 室は通當の娘 │ │ │ │ │ ├女子 神田与左衛門通榮室 │ │ │ │ │ ├女子 越智左衛門 │ │ │ │ │ ├女子 神田市郎兵衛正照室 │ │ │ │ │ │ 茂右衛門 兄通深嗣 │ │ └通公 │ │ │ │ 半三郎、与左衛門 │ └通勝───────────────────┐ │ 慶安二年卒 │ │ ┌──────────────────┘ │ │ │ │ 神田与左衛門 │ └通榮 │ 元禄五年没 室は神田茂右衛門通當の娘 │ │ │ ┌────────────────────────┘ │ 喜左衛門 ├某 │ 寛文四年卒 室は榎津九郎次郎の娘 │ ├女子 神田茂右衛門通當室 │ ├女子 神田傳左衛門室 │ ├女子 佐伯六右衛門室 │ └某 儀大夫 兄喜左衛門嗣
神田傳左衛門 通定 ───────────────────────┐ │ ┌────────────────────────┘ │ 傳左衛門 ├通政──────────────────────┐ │ 天和二年卒 │ │ │ │ 伝之丞 │ └通直 │ │ ┌────────────────────────┘ │ 市郎兵衛 └正照 延宝五年卒 室は神田茂左衛門通當の娘