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豊臣秀長と藤堂高虎 大光院

 高虎に立身の切っ掛けを与えてくれたのは、豊臣秀長である。  温厚篤実と伝えられる秀長は、当時まだ武辺一辺倒であった高虎を良く使いこなし、その実力を認め、相応しい待遇を与えた。

 残念ながら秀長は、天正十九年一月、大和郡山城において五十二歳という若さで死去したが、高虎は後々までこの尊敬すべき主君の厚恩を忘れなかった。

 秀長は、兄の秀吉によって郡山に創建された大光院に葬られた。大光院の名称は、秀長の法号・大光院殿前亜相春岳紹栄大居士に由来する。

 大和大納言家は、秀長の甥・秀保が継いだが、この秀保も不幸にして文禄四年に死去、さらに慶長三年に秀吉も没し、祭祀が疎かになる事を憂いた高虎は大光院を、自らの費用で本山・京都大徳寺内に移した。

一 紫野大光院文禄元年和州郡山ニ御建立同国於大垣内三百石寺領被下本山大徳寺と程隔候ヘハ法務疎ニ可相成哉と高山様深キ思召ニ而慶長四年紫野へ御引迂方丈庫裏一式御再興被成下候節惣奉行として与州ヨリ藤堂式部殿其外役人中御差越尚又於番所林忠左衛門殿被仰付何も結構ニ被成就候其後権現様ヨリ高八十石御朱印被下候 一 元和九亥十月大光院修覆之義御願申上候処寛永二丑年二月書院一宇御建立并本房御修覆願之通被仰付従伊勢藤堂采女殿石田清兵へ殿同嶋之介殿為御見分御越無程御ふしん結構ニ被仰付候 一 慶長十一年午九月高山様御入被遊候事 一 同十二未年大光院殿十七回忌ニ付高山様御法事御執行被遊候事 一 同十八年八月高山様御入被遊候事 一 同廿年卯七月高山様御入盆供養被仰付候事 一 元和三巳七月高山様ヨリ御法事執行被遊候事 一 元和五七月高山様御法事御執行被遊候事 一 元和九亥年大光院殿三十三回忌ニ付高山公作善料遣之候事 一 寛永三七月高山公被為入候事

 この様に大光院の書付によれば、高虎は大徳寺内への移設後、何度も秀長の菩提を弔うため、同院に足を運ぶのみならず、設備の修復や年忌法要に意を尽くし、秀長の死後35年経った後も同院を訪れて、その墓前に額突いているのである。

 高虎が、巷説に言われる様な、ただ立身出世のために主君を変える軽薄な男であれば、この様なことはしないであろう。高虎の義理人情に厚い人柄を裏付ける事実の一つである。

 なお、慶長四年に大光院を大徳寺内に移設した際に工事を指揮したのは、上記のとおり高虎の重臣の一人である藤堂式部家信であるが、この時の縁で家信も同院に葬られている。

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