堀家 堀伊織
秀吉の元で越前北ノ庄十八万石を領した堀 左衛門督秀政の従兄弟・堀伊織信家を初代とする。信家は、秀政に従って戦功を重ね、その妹婿ともなった。
秀政の死後は嫡子・秀治を支えて、秀治が越後春日山三十万石へ加増転封となった時に八千石を与えられた。慶長十五年、堀家は家中騒動によって改易となったため、高虎に招かれ千石を与えられた。慶長十九年、大坂冬の陣に小姓組頭として従軍、翌年の夏の陣には黒母衣組の母衣頭を務め大功をあげ「四本鎗」の一人に数えられた。帰陣後五百石加増され千五百石となった。寛永十二年一月に死去。
堀家の菩提寺である三重県伊賀市紺屋町にある正崇寺は、滋賀県蒲生郡日野町にある同名の寺から隠居した空賢が伊賀上野に来て、信家の協力を得て開いた寺である。堀氏は元々、近江出身であるから何らかの関係があったものと思われる。正崇寺の建設に当たって信家は、敷地や材木の調達を支援し、当時の本堂を造営したそうである。
余談だがこの正崇寺にはもう一つ興味深い由緒がある。開祖の空賢は、俗姓が大野氏であり、大坂の陣で城方の中心人物であった大野主馬治房の舎弟というものである。大坂落城後、脱出した治房の遺児を一時匿っており、幕府から詮議されたが、高虎の配慮で赦免されたとのことである。
堀伊織家の直系は江戸中期に絶えたらしいが、同家の経歴は初代・信家以外判明せず残念である
堀 六助 掃部大夫 某 ─────────────────────────┐ ┌──────────────────────────┘ │ ├女 奥田七郎五郎直純室 │ │ 掃部大夫 太郎左衛門尉 ├秀重────────────────────────┐ │ 慶長十一年十一月二十八日卒 │ │ │ │ 権之助 病により剃髪 於越前向宗僧侶 毛坊 │ ├重信───────────────────────┐│ │ ││ │ 堀 次右衛門 ││ └某 ││ ││ ┌─────────────────────────┘│ │ 伊織 二千石 │ └信家───────────────────────┐│ 寛永十二年一月卒 室は秀政五女 ││ ││ ┌─────────────────────────┘│ │ 二代 三郎左衛門 伊織 千五百石 │ ├信政───────────────────────┐│ │ 寛文元年卒 ││ │ ││ │ 十兵衛 三百石 後叔父堀内匠養子 仕生駒讃岐守 ││ ├信知 ││ │ ││ │ 佐五左衛門 二百石 ││ └信久 ││ ││ ┌─────────────────────────┘│ │ 三代 安右衛門 伊織 千石 │ ├信次───────────────────────┐│ │ ││ │ 傳助 五百石 ││ └信直 ││ ││ ┌─────────────────────────┘│ │ 四代 安右衛門 │ ├信興 │ │ │ │ 長次郎 │ └某 │ │ ┌──────────────────────────┘ │ 久太郎 左衛門督 侍従 ├秀政 │ ├女 生駒讃岐守一正室 │ │ 源助 多賀出雲守 多賀出雲守養子 加賀前田家に仕う ├秀種 │ ├女 堀 采女室 │ ├女 堀 孫右衛門直重室 │ ├女 初め久徳大炊助室 後種田助之丞室 │ │ 堀 左馬助 市正 ├利重 │ │ 堀 下総 四郎右衛門 前田利常に仕う ├安重 │ │ 堀内膳 前田利常に仕う ├某 │ ├女 堀伊織信家室 │ │ 堀 勘兵衛 徳川忠長 後溝口宣直に仕う ├三政 │ │ ├女 柴田半之丞 後中島主水室 │ │ 堀 大蔵 内蔵助 ├延政 │ ├女 比良太郎兵衛玄賀室 │ │ 堀 内匠、与左衛門 又名 重成 ├末成 │ │ 堀 三四郎 新右衛門 ├親重 │ ├女 箕浦藤兵衛元杜室 │ └女 松崎惣右衛門室