戸波又兵衛親清
戸波又兵衛親清を初代とする。親清は後に二代藩主・高次の命で、与三兵衛と改めた。
戸波氏は長宗我部一族で、長宗我部国親の弟・国康の子である親武が、長宗我部元親から土佐国戸波城を与えられ戸波右兵衛と称したのを祖とする。
その子である親清は、慶長三年の朝鮮役で初陣、慶長五年の関ケ原戦に盛親に従い敢闘、慶長十九年の大坂陣の際、盛親に従い大坂城に入場し、翌年の夏の陣にも隊下四十騎兵を率いて奮戦。敗戦後、流浪し、寛永三年に至って関白・近衛信尋の推挙で藤堂家に仕えた。
寛永元年十一月、親清自身が提出した大坂陣の覚書には、大坂陣で盛親に従って奮戦した様子や敗戦後の潜行、関ケ原陣、朝鮮陣での活躍が順不同で記載されている。親清は、寛文五年に死去し、遺禄百五十石の内、百石が嫡子である与三兵衛に、五十石が孫である久三郎親良に与えられた。両人ともに親清存命の内から別に召し出されていたため、共に二百五十石となった。
本国にてハ私親長曽我部右京(別の史料には右兵衛とあり)と申候おや以来与力を預り今度大坂にても私儀馬乗四拾騎預申候 往古豊後陣の刻太閤様為上使高山様土佐国へ被為成御越候時私親戸波と申所に城を預り罷在候 山城にて御座候故城下の下屋敷にて私親御膳上候由に御座候 高山様私親儀年来御存知の者にて御座候得共私被召出候刻ハ近衛様御肝煎にて被召出候得は前後の儀御耳に達し申儀も仕かたく罷過候事 寛永元年霜月日
この覚書は寛永元年に藤堂采女宛に提出されたことになっているが、親清が高虎に召し出されたのは公室年譜略によると寛永三年のこととされている。最初に戦功を売り込んで後に召し出されたものか、事情は不明である。
また「鍵屋の辻の仇討」で著名な荒木又右衛門が、親清に剣術の批判を受けて却って弟子入りしたのは良く知られている。こちらは藤堂新七郎家旧蔵の起請文で事実であることが明らかで「新陰流兵法」とあるが、そもそも親清がなぜ新陰流を嗜む様になったのか、接点が良く分からない。慶長五年の長宗我部家改易後、誰かから学んだものか?
また長宗我部主水と戸波又兵衛を同一人物とする資料があるが、高虎晩年の分限帳には全く別人として併記されており、誤りと思われる。
判明している子孫として、陸軍少将となった戸波辨次氏、明治⽣命保険株式会社の監査役となった戸波親信氏がいる。
親信氏の子息である戸波親平氏は、官立の大阪高等工業学校卒業後、三菱合資会社に入社し神戸造船所、英国勤務を経て、大正12年に退社して大阪高等工業学校の講師を勤め、昭和6年に株式会社アグネ出版社を設立。現在、東京都港区にある株式会社アグネ技術センターは、同社の後進に当たる。